栗原貞子(1913〜2005)は、祇園町(現在の広島市安佐南区祇園町。爆心地から約4km。)の自宅で被爆。近所に住む人の娘を探しに爆心地の方へ行き、被爆の惨状を目の当たりにした。
『生ましめんかな』(現在は「生ましめんかな」とひらがな表記になっているが、創作ノートには「生ましめん哉」と漢字で書いてある。)は、彼女の詩の中でも特に知られている作品で、10か国語で訳され教科書にも掲載され、多くの人によって読み継がれてきた。(前述とは別の)近所に住む人から聞いた話を基にしており、被爆から2日後の8月8日の夜、廃墟となったとある建物の地下室で赤ちゃんが生まれるというもの。死の灰と化し、自由もなく重苦しい社会の中で、自由と希望を持って生まれてきたこの新しい生命によって、どれだけの被爆者や遺族が勇気づけられたであろうか。
この『生ましめんかな』が含まれる『あけくれの歌(創作ノート)』は、栗原が1945年1月より詩の創作に用いたノートである。2007年に長女・眞理子氏から学校法人広島女学院に寄贈されたが、2016年、同法人から広島市に寄託されたため、現在は広島平和記念資料館に収蔵されている。
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも