栗原 貞子

(1913~2005)


 昭和~平成時代の詩人。1913年広島市(可部)に生まれる。昭和6年、アナーキスト・栗原唯一と結婚。戦時中『人間の尊厳』などの反戦詩を書く。1945年被爆。その年の12月、夫とともに「中国文化連盟」を結成し、翌年から2年間、機関誌『中国文化』を創刊、原爆特集号に代表作となる『生ましめんかな』を発表、また詩歌集『黒い卵』を刊行した。その後原水爆禁止運動にとりくみ、『私は広島を証言する』『ヒロシマ・未来風景』『ヒロシマの原風景を抱いて』などを刊行。1991年「護憲の碑」建立。2005年3月6日死去。92歳。



栗原貞子 主な作品


栗原貞子 年譜

1913年

3月4日、広島県安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区可部町)に農家の次女として生まれる。


1926年

広島県立可部高等女学校入学。文学書を読み、詩や短歌を書き始める。


1930年

県立可部高等女学校卒。歌誌『処女林』(1932年に『真樹』に解題)同人となる。中国新聞に詩、雑文を投稿。


1931年

栗原唯一と結婚。唯一がアナキストであったことから両親に反対されたため、家を出ての結婚となった。


1932年

松山市、高松市などを転々とした後、貧困と圧迫の中で長男・哲也を出産。


1934年

長男・哲也、消化不良のため死去。


1935年

長女・眞理子を出産。


1939年

次女・純子を出産。


1940年

唯一が徴用されたことにより、病院船吉野丸に乗船し、上海方面に出航。

送還後、目撃した日本軍の残虐行為をバスの中で知人に話したことが密告され、起訴される。


1942年

『黒い卵』『戦争に寄せる』『木の葉の小判』『戦争とは何か』刊行。


1945年

祇園町長束に転居。作家・細田民樹氏と出会い、文通を始める。

8月6日、自宅にて被爆(爆心地から約4km)。家屋も、壁や戸、障子、窓が爆風で飛び、天井も下がる被害を受けた。

同月9日、隣家の女学生の遺体を引きとりに行く。

また、短歌『原爆投下の日』19首、『悪夢』24首を書く。

爆風で壊れた部屋の灯火管制の下、細田氏と語りあい、「もう戦争も時間の問題だ。戦争が終わったら文化運動を始めよう」と約束する。

12月、夫とともに「中国文化連盟」結成。細田民樹氏が顧問となる。


1946年

『中国文化』原子爆弾特集号を刊行。

8月、詩歌集『黒い卵』中国文化連盟叢書刊行。

検閲において、プレスコードの関係で詩3編、短歌11首が削除される。


1948年

『中国文化』終刊。

それに伴い、11月、『リベルテ』に改題し、創刊(その後、6号まで発行し、廃刊となる。)。


1952年

広島で世界連邦アジア会議が開催。

峠三吉らとともにメッセージをまとめ、原爆に関する映画、文学などの弾圧、海外移出禁止の実状を訴え自由への支持を求める。


1953年

中国新聞紙上で、第一次原爆文学論争が起こる。


1959年

正田篠枝、森滝しげ子、山口勇子らと「原水禁広島母の会」を発足。


1960年

広島詩集『日本を流れる炎の河』を刊行。

中国新聞紙上で第二次原爆文学論争起こる。その発火点『広島の文学をめぐって』を発表。


1961年

『ひろしまの河』(原水禁広島母の会)創刊。


1962年

大原三八雄、米田栄作、深川宗俊らと和英対訳詩集『The Songs of Hiroshima』を刊行。


1967年

詩集『私は広島を証言する』を刊行。


1969年

詩集『ヒロシマ』(大原、米田、深川氏と刊行委員会)を発行。発行部数は1万部にのぼる。


1970年

『どきゅめんと ヒロシマ24年 現代の救済』(新報社刊)を出版。


1974年

詩集『ヒロシマ・未来風景』(詩集刊行の会)を出版。


1975年

『ヒロシマの原風景を抱いて』(未来社)を出版。


1976年

詩集『ヒロシマというとき』(三一書房)を出版。


1978年

エッセイ集『核、天皇、被爆者』(三一書房)を出版。


1979年

詩集『未来はここから始まる』(詩集刊行の会)を出版。


1980年

英訳栗原貞子詩集『The Songs of Hiroshima』を出版。

夫・唯一、膵臓癌で死去。


1981年

『中国文化』原子爆弾特集号が復刻。


1982年

『ヒロシマ、ナガサキの証言』(編集委員)が創刊。

詩集『核時代の童話』(詩集刊行の会)を出版。

6月、ドイツ・ケルンで開催された「国際文学者会議 82」に出席し、「核時代の体験作家の苦悩」を講演。

エッセイ集『核時代に生きる』(三一書房)を出版。


1984年

『日本現代詩文庫17 栗原貞子詩集』(土曜美術社)を出版。


1985年

『反核詩画集ヒロシマ』(詩集刊行の会)を出版。


1986年

詩集『青い光が閃くその前に』(詩集刊行の会)を出版。


1988年

栗原のエッセイ『原爆、敗戦、占領の一九四五年』が収録された『DAS ENDE』の日本語版が『戦争は終わった』(好村冨士彦訳)として出版。


1989年

中国郵政局(現在の日本郵政グループ広島ビル)の庭に、広島貯金局の被爆した屋上タイルを貼った、『生ましめんかな』の詩碑が建立される。


1990年

詩集『核なき明日への祈りを込めて』(詩集刊行の会)を出版。

第3回谷本清平和賞受賞。


1991年

広島市安佐北区の墓地に、護憲の碑が建立される。

エッセイ集『問われるヒロシマ』(三一書房)を出版。

呉港での国連平和維持活動反対デモに参加。参加後、栗原本人が帰宅するよりも早く、脅迫状や脅迫電話が相次ぎ、自宅に投石されることとなる。


1994年

マサチューセッツ大学の教授・リチャード・H・マイニアにより、『黒い卵』が検閲で削除された文章が表紙になった状態で英訳出版される。

三次市三良坂町の三良坂平和公園内にある「原爆・戦争犠牲者追悼非核・平和を願う記念碑」(通称「母と子─わたす像」)のそばに、この碑をテーマにした散文詩『わたすの母子像』の詩碑が建立される。


1997年

詩集『忘れじのヒロシマわが悼みうた』(詩集刊行の会)を出版。


1999年

右脳梗塞のために半身不随となる。


2005年

3月6日、自宅にて死去。92歳。


2008年

長女・眞理子により学校法人広島女学院に文学資料が寄贈され、広島女学院大学図書館内に「栗原貞子記念平和文庫」が開設される。