峠三吉『あとがき』
あとがき
私は一九四五年八月六日の朝、爆心地より三千米あまりはなれた町の自宅から、市の中心部に向って外出する直前原爆をうけ、硝子の破片創と数ヶ月の原爆症だけで生き残ったのであるが、その時広島市の中心より約二千米半径以内にいた者は、屋内では衝撃死又は生埋めにされたまま焼死し、街路では消滅、焦死、あるいは火傷して逃れたまま一週間ぐらいの間に死に、その周辺にいた者は火傷及び原爆症によって数ヶ月以内に死亡、更にそれより遠距離にいた者が辛うじて生き残り、市をとり巻く町村の各家庭では家族の誰かを家屋疎開の跡片付に隣組から出向かせていたため骨も帰らぬこととなった。また、その数日前ある都市の空襲の際撒かれたビラによるという、五日の夜広島が焼き払われるという噂や、中学校、女学校下級生たちの疎開作業への動員がこの惨事を更に悲痛なものとさせたのである。
今はすべての人が広島で二十万ほどの人間が一発の原子爆弾によって殺されたことを知っている。長崎でもそうだ。然しそれは概括的な事実のみであってその出来事が大きければ大きいだけに、直面すれば何人でも慟哭してもしきれぬであろうこの実感を受けとることは出来ない。当時その渦中にあった私たちでさえこの惨事の全貌を体で知ることは出来なかったし、今ではともすれば回想のかたちでしか思いえぬ時間の距りと社会的環境の変転をもった。
だがこの回想は嘆きと諦めの色彩を帯びながらも、浮動してゆく生活のあけくれ、残された者たちの肩につみ重ねられてゆく重荷の中で常に新しい涙を加え、血のしたたりを増してゆく性質をもち、また原爆の極度に残虐な経験による恐怖と、それによって全く改変された戦争の意味するものに対する不安と洞察によって、涸れた涙が、凝りついた血が、ごつごつと肌の裏側につき当るような特殊な底深さをもつものとなっている。
今年もやがてなくなった人たちの八周忌が近づく。広島では多くの家庭が、一度に応じきれぬ寺院の都合を思い、繰り上げたり繰り延したりしていとなむ法事をそろそろひらきはじめる頃であるが、その座に坐った人たちの閉された心の底にどのような疼きが鬱積しつつあるかということを果して誰が知り得るであろうか。それはすでに決して語られることのないことば、決して流されることのない涙となっているゆえに一層深く心の底に埋没しながら、展開する歴史の中で、意識すると否とに拘らずいまや新しいかたちをとりつつあり、この出来事の意味は人類の善意の上に理性的な激しい拡大性をもって徐々に深大な力を加えつつあるのである。
私はこの稿をまとめてみながら、この事に対する詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべくあまりに力よわいことを恥じた。
然しこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物である。どうかこの心を受取って頂きたい。
尚つけ加えておきたいことは、私が唯このように平和へのねがいを詩にうたっているというだけの事で、いかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるかということである。私はこのような文学活動によって生活の機会を殆んど無くされている事は勿論、有形無形の圧迫を絶えず加えられており、それはますます増大しつつある状態である。この事は日本の政治的現状が、いかに人民の意思を無視して再び戦争へと曳きずられつつあるかということの何よりの証明にほかならない。
又私はいっておきたい。こうした私に対する圧迫を推進しつつある人々は全く人間そのものに敵対する行動をとっているものだということを。
この詩集はすべての人間を愛する人たちへの贈り物であると共に、そうした人々への警告の書でもある。
一九五二年五月一〇日
峠 三吉