大田洋子『山上』


 大田洋子の小説『山上』は、文芸誌『群像』(1953年5月)に掲載された。

検閲の実体験を率直に書いているのは稀有な例であろう。呉から来た米国の情報機関の軍曹に尋問された一部始終を事細かに記録している。

 

 大田洋子の評伝『草饐』を書かれた江刺昭子氏は、2023年9月26日の共同通信の『47リポーターズ』の中で、次のように述べている。

 

 大田は自我が強く、わがままで、強すぎる作家意識が文壇で嫌われていた。戦後の原爆被害者としての作品と、戦時中の戦争協力という二面性への批判もあった。それらが作品評価にも影を落としてきたが、違う見方もできる。

 

 「わがまま」というのは、自己主張が強く、自由の制約や抑圧を嫌うということだ。その性格が強く発揮されたらからこそ、規制の中でも『屍の街』を出版することができたのではないか。「強すぎる作家意識」は使命感の強さでもある。それは誰よりも早く、大量に原爆文学を書くエネルギーをもたらした。

 

 二面性の批判については、大田の戦時中の作品や振る舞いがもっと丁寧に分析される必要があると思う。


 その山上の村の冬の寒さは、云いようもなくきびしくて、深いものだった。はじめのあいだ、乾ききって凍るようなその村の澄んだ寒気を、私はどこの山奥の村にも同じように襲来するあたりまえの冬の冷気だと思っていた。

 乗合自動車が下の町から山間にはいって来て、七曲りという山ぞいのけわしい県道をくねりながら登りはじめる。右に曲り、左にまわってじぐさぐに、這うような恰好で自動車は走って行くが、展望はなく、右手には起伏のひどい山裾が迫り、左側には細い川の流れや低い林や森がつづいていた。川のほとりにも、林や森のなかにも畑が散見しているが、いつ通っても人影は見えなかった。畑には馬鈴薯や蕎麦が作ってあった。その畑の方へ傾くようにして走る自動車の窓から、私は白色の蕎麦の小花と紅色に透けて見える細い茎のつらなりを眺めたことがあった。山にかこまれたこの谷間の山肌や小さい野原に、しがみつくように耕やされたほの暗い畑に猿が集って来て、馬鈴薯を掘って食べてしまい、蕎麦の実も幾夜にわたって食べつくすのだということを、私は乗合のなかできいた。 猿が勝手にとび歩き、ささやかな畑から畑の薯や蕎麦を食べ荒して、自在に生きている話を、私は微笑をもって聞いた。乗合自動車は山上を目ざして呻くように峠道をのぼって行き、平らな雑木林の盆地に停まるのである。車の扉があき、ひどいゆれ方に疲れた人々が腰をまげて降りる。私はそこから二つ目の「河津」という停留所で降りるのであった。しかし一度か二度、降車する村人のあとから、その高原らしい風景をもった停留所に降りてみたことがあった。私は高原に降りた瞬間、異様に冷澄な空気にふれた。一月の初めのころであった。淡青色の深い山の空がそのままあたりの空間に溶け込んででもいるように、青く凍った空気がぴんと張りつめていた。しんしんとして青く凍り、澄みきった空気なので、感情も肉体も波立つことがなく、静かでいられた。雑木林のなかのその精霊的な寒気が私は悲しかった。清らかでありすぎ、澄み透りすぎていて、私のめちゃめちゃに傷ついた心理とからだを慰めることに役立つよりも、却って現実との調節を破るからであった。この村の入口である高原の空気が混然と濁っていてくれる方が、私の感情には都合がよいのであった。

 私が自分の書いた作品のためにアメリカ占領軍の調べをうけたのはこの村でであった。一九四七年冬の半ばである。村ではあとからあとからと降りかさなった雪が、太陽の照る日にも完全に消えることがなかった。白い塊りが村中に点々として、北に向いた雪肌はナイフのように鋭く光っていた。私は白壁作りの地主の家の屋根裏に住んでいた。広い階下には二十九歳の戦争寡婦と四つになる女児の母子が、ひっそりと隠れるような姿で暮しているきりであった。

 ある朝、村の子供たちががやがやと嘆舌りながらやってきて、屋根裏部屋の下から私の名前を呼んだ。子供達の声は、大勢して誰かを私のところに案内してきたことを告げているのである。私は障子をあけて首を出した。前庭の中程に未知の二人の人間が立っていて、私を見あげた。図抜けるほど背が高く恰幅のいい一人の外国兵士と、黒い背広を着て、足の短いずんぐりとした日本の男とが、ぴったりくっつくように並んで立っている。驚くほど背丈の違う異国人同志である二人の男が、そのように近々と並んで立っている恰好を見ると、黒い背広の小男が、外国兵士の通訳のほかの何者でもないことを直感させた。(来たのね)と私は思った。子供の連中はぽかんと口をあけ、二人の男をとりまいて、上の私の顔と下に並んだ男たちとの顔を交互に見くらべていた。私は階下に降り広い土間で下駄をはいて、入口の障子のはまった大戸をあけに行ったが、その刹那的な短い時間に(調査は綿密で速く、厳重なようだ)ということを想像した。私は大戸をあけた。しかし高い敷居をまたいでまでは外に出て行って二人を迎えることが出来なかった。二人の訪問者は頑丈な高い作りの敷居の外に立っていた。私は自分の名前を云った。名刺も出さず、名前を名乗ろうとしない初めての来客に、そうするほかなかった。通訳の男は丸い顔に悪意のないほおえみを浮べて云った。

「あなたが原子爆弾の投下の日、広島におられて、それを小説に書いていらっしゃるというそのことで、いろいろお訊ねしたいことがあって伺いました」

「どちらからですか」

「呉から来ました」

 私は彼らがいる土地のことを訊いたのではなかった。占領軍のどんな機関から来たのか、それをたずねたのだ。原子爆弾投下の日からそれ以後にかけての具体的な街と人間の破滅の状態を手記に書いた「死の街」は、東京の綜合雑誌を出している出版社に送ったままになっていた。表面には出ないが、非公式に発表禁止の命令が出ていることは、前から私も知っていた。出版編集者からは、検閲をうけることで却って注目される不利を云って来ていた。日本の作家が日本で出したいと思う作品は、その作家の住んでいる土地の占領軍の検閲をうけねばならぬ建前であった。私の場合、広島県の山奥に逃げのびているのであったけれども、検閲を受けたければ九州の小倉に送らなければならなかった。小倉から私に宛て、同じ作品のプリントを二冊分送附するようにと返書があった。三百五十枚の原稿を、二つもうつしとって小倉に送る気が私はしなかった。アメリカがその作品の発表を好んでいないことが、はっきり納得できていたし、障子からはがした破れ紙やちり紙や、よごれた便箋などを貰い集めて鉛筆書きにしたその原稿を、東京からとりよせて再び自分の眼にさらすことは、たまらないことだった。私は腹いせに、小倉の返書に対し、「太田よう子」という宛名姓名とも字が違うから気持ちがわるい。今後は気をつけて正確に書いてもらいたいという葉書を送った。先方からはローマ字に依って書いたもので止むを得なかったと、ふたたび返書が来た。

 私はそのことを思いだしたせいもあって、少し笑った顔で、敷居の外にのッとして立っている外国の兵隊を見あげた。兵士は笑顔を返さなかった。薄碧の眼と亜麻色の髪の毛をした能面のようなものがもし外国にあるとすれば、この三十歳あまりの兵隊の表情は、そっくりそれに似ていると思えた。表情のない単純なその外国兵の顔は、微動もしない静けさと冷めたさとをもって私をじっと点検するように見ていた。私はまた兵隊の顔に笑いかけた。相手の表情はうごかなかった。のちになって私はそのとき自分一人だけにやにや笑ったことを後悔した。いったい自分がどんな理由で、唐突に礼を欠き、名前も云わないで眼の前に立っている未知の外人に、にやりにやりと笑いかけたのか、充分に私は了解することができなかった。私の笑いについて、考えられるのは次のようなことがらだけである。元来私にはちょっとしたことをおもしろがって笑いだすくせがあった。その兵隊のかたくなに笑わない顔もおかしかった。私たちは子供のころ、背の高い男を電信柱と云って笑ったが、日本の電信柱に比べ、もっと堂々として、のっぽの背丈もそのころ、外国人を見馴れていなかった私の眼から笑いを誘いだすのに役立った。戦争に依る勝者と敗者、占領者と被占領者の関係を、私は中国の再三の旅行で見、占領者であった日本の将兵と民間人の暗く陰険な、そしていい気な傲慢と卑賤との混乱を目撃したが、いま逆転の位置に立ってアメリカの兵隊に調査されようとしている、転落のこちらの位置が私にはおかしかった。こうなることはとっくにわかっていたのだ。そしてこうなって見るまで日本の敗北を承知できなかった日本の頭脳の滑稽さが私の笑いとなって現れているようでもあった。日本以外の国への政治的意図から、日本の中都市に原子爆弾を使用せざるを得なかったアメリカの焦慮に対し、私はその国の兵隊の顔に皮肉な笑いを注がないではいられなかったのかも知れなかった。私はまた、呉からこの山村まで、二十里にちかい道をジープを駈って訪ねてくるほど、私のその作品は「危険な作品」ではないということを、前以って云っておく代りに、笑った表情で兵士と通訳とを眺めたようでもあった。

 私は自分の身なりのおかしさを意識し、それが人の眼にたぶんおかしいだろうと思ってもいた。あまり珍妙な身なりをするくせは元来はなかった。しかしそのときは山上の寒さに耐えきれず、布団のように厚い綿入れの羽織を着て丸くなっていた。なかの綿は四五枚の座布団からひきだした硬い綿であった。

 しかし私の笑い顔がどんな意味のものであるにせよ、アメリカ兵士はにこりともしなかった。たぶん私の顔が笑うことは、この兵士にとって迷惑以外のものではないのであろう。彼にとっては私が逃げだしたり、作品について嘘の供述をしさえしなければそれでよいのである。

 私は自分の部屋に二人を通す気にはならなかった。いまは寡婦である若い主婦の了解を得て、私は仏壇のある中座敷に二人を案内した。主婦は泣き笑いの顔をして、通常、仏間とよばれるその中の座敷に炬燵をしようかと、私に囁いた。

「お炬燵にはまさかはいらないでしょうから、いいわ」

 主婦は火鉢を運んで来て、黙っておいて行った。外国兵士は四角な大きいテーブルの前に坐って自分の脚をもてあましていた。引きしまった細身の軍服の大きな腰を座布団に落し、膝を高く立てて窮屈そうに黙り込んでいた。私はその長い脚をテーブルの下に出してもらってもよいと云った。そのときも私は笑い顔をした。私はこの相手にへつらい笑いをしているようであった。相手は間ちがっても笑った顔をせず、そのかわりにテーブルの下に両脚をのばした。両脚はもりあがり、テーブルがもちあがって動き出しそうだった。五十歳にちかいと思われる通訳は、丸い膝できちんと坐り、アメリカ兵士にも私にも同じ一定の距離を保って、始終等分ににこにこと笑っていた。彼の洋服もネクタイも粗末で古くさいものであった。

「わたしはハワイ生れの二世です」

 通訳は姓名の代りのようにそう云ってから、私に対するアメリカ兵士の質問を通訳しはじめた。

「あなたの書かれた小説の原稿というのは、あなた以外に、これまで、誰と誰とが読んでいますか」

「私が読んだだけで、東京のC社に行っています。C社の編集部のEさんが読んで手紙をくれましたから、Eさんはたしかに読んでいます」

「Eさんはどんな思想と主義をもっている人ですか」

「自由主義者です」

「Eさんは日本のどの政党に属していますか」

「私とは個人的なつき合いはないので、よくわかりませんが、日本の文化人のこれまでの習慣から云って、どの政党にも属してはいないと思います」

 通訳は太い首を右に向けたり左に向けたりして、私と兵士との応答をとりつぐが、兵士の方は興味もなげに、ろくにうなずきもしなかった。手帳を出して、ときどきペンをうごかしていた。

「その原稿を日本人のほかに、外国人の誰かが読みましたか」

 この質問のとき初めてアメリカ兵士は私の方に顔をあげ、青い漠とした眼で注意ぶかく私の眼の色を読みとろうとした。

「いいえ、外国人の誰も読んでいません」

「あなたの友達の名を、できるだけたくさんあげてください」

 とっさに私は数人の女友達の名前を、あたまのなかに並べて見た。殆どが東京での作家仲間の女性たちであった。広島での古い友人たちは、八月六日の当日からそれ以後にかけてあらまし死んだり、行衛不明になったりしていた。私は東京の友達のなかから、さし障りのない一人の名前を云った。するとEの場合と同じ問いがくり返された。

「その人はどういう思想と主義をもっていますか」

「自由主義者です。反戦主義者です」

「どの政党に属していますか」

「どの政党にも属していません」

「もう一人の友達の名を云ってください」

 私は倒くさいと思った。しかし、云わないことはもっと面倒であった。あとで了解の得られる女性の名を云った。

「この人はどういう思想と主義を……」

「自由主義者で反戦主義の人です」

「どの政党に関係していますか」

「どの政党にも関係していません」

 私は日ごろのくせの早口になった。通訳に向っていきなり別のことを私は云い出した。

「あのね、すみませんけれどね、あなたからよく話してくださいませんか。外国の文学をよむと、小説家なり雑誌の編集者なり、そういうインテリゲンチャは、それぞれ自分の思想や主義主張を他に向ってはっきり表現することができる、伝統のようなものを持っているし、自分の支持する政党をあきらかにしているようです。外国の文学によらなくても、人々がそういう自由をもっていることは、だいたい事実でしょう。だけど日本では違うのですよ。日本のインテリゲンチャは自分の気に入った政党を持っていませんでした。自分の思想をも表現する場がなかったし、せっかくそれをもっていた人も転向したり、投獄されたり、殺されたりしました。宗教の確立もなかったので、宗教的な信仰による思想で作品を書いた人もありません。だからそういう思想的な作品をとり扱った編集者もないわけです。私たちと編集者は僅かに自由主義的で、それさえももっと戦争がつづいていたら、一人残らずつかまったことでしょう。私達が自分の好きな一つの政党に属することができたり、主義や主張をあきらかにすることがゆるされていたら、あんな戦争は初まらなかった筈ですからね」

 私は、自分の勝手で、通訳に向ってこんな風に云っている途中、拍子抜けがしてくるのを感じた。二人の取調人は、私によって日本の小説作家と政治との関係、その悲劇の性質を知ろうとしているわけではない。二人の顔つきを一眼見れば、彼等が文学や知識階級と政治との関係などとは、縁もゆかりもないことは明瞭であった。

 彼等の訊こうとすることの目的は、ほかのところにあるのだった。訊問はつづけられた。

「八月六日以後、あなたは広島の街を歩かれましたか」

「歩きました」

「そのとき外国人と一緒でしたか」

「いいえ」

 広島爆撃ののち、四日目には田舎にはいって来ていたが、その年が明けて間もなく、広島市外の小学校に仮住居を初めていた県庁は、知事の名義で、方々の田舎に散り散りになっている文化人たちを呼び集めた。壊滅の街の復興について、意見交換の会合をするというのだった。私はなんの意見ももっていなかった。私は私の頭に焼きついている亡霊の街に向ってふらふらと出て行った。山を降り村をすぎて、廃墟に行く汽車の駅に行って見たが、どの汽車も充満した人間がこぼれ落ちそうに群らがって乗っていた。

 廿日市というその小さな町に、古くから知名な老学者が住んでいた。私はその学者の家を訪ねて見た。彼は自動車で出かけようとしているところだった。汽車にはとうてい乗れないと云って、老学者はどこかから探しだしてきた焼けこげのあるぽろ自動車に、私も同乗して行くことをすすめた。ぼろ自動車はゆっくりゆっくり体をゆすって、廃墟の街の中心を進んで行った。自分の足で歩いた方が早いと思うほど、車はよろよろと進み、小さな丘になった幾つもの瓦礫の堆積のあいだを経めぐった。目的地へ行くのに、この車は街の西の端から東の端に向って走らなければならなかった。

「ここが爆心地ですね」

 中年のせた運転手がとつぜん独り言のように言った。爆心地の土は黒褐色に焼けていた。

「私は三日目に、死体のとり片づけに召集されて、田舎から出たんですが、この左手の二百米くらいのところに、外国人の捕虜が手錠をはめたまま、うつ伏せに死んでいたのを見ましたよ」

 私と老学者とは口をきかなかった。

「日本人の死体はみんなして、何千も何万もとり片づけましたがね、外国の兵隊の、しかも手錠のはまったのは、その男がたった一人でしたよ。遠い広島くんだりで、たった一人でねえ」

 自動車が進むにつれて、私は気づいた。爆心地で見た黒褐色の地肌の色合いが、円を描いて、段々と薄れて行っていることに。この街の焼け方に濃淡と粗密のあったことは聞いていたが、結果的には全市が灰と化した。いま自動車とは名ばかりの乗物でゆっくり歩いて見て、その傷痕の鮮明さに私は驚いた。爆心地から徐々に円を描いて放射線状にひらいている、焼土の色の度合いは、そのまま、爆心地の惨状の妄想をよびさました。人間の密集していた爆心地で、その朝どのような状態が人間たちのうえに起ったか、いまでは黒い血のかたまりのような色をした、爆心地の瓦礫と土だけしか知らないのだった。

 その日の帰り、私は一人で西練兵場跡に立ち寄ったが、道に迷った。そこに出来た戦災者住宅に妹を訪ねるためだった。日暮れであった。広大な旧軍隊跡には、その面影が完全に消えたあとに、野草がはびこり、堅牢な軍隊建築物が崩れ落ちていた。 目茶苦茶に破れた鉄筋コンクリートの腐蝕した綱が、滝のように垂れ下り、そのまま枯草の中に這い込んでいる。戦災者住宅はどこにも見えなかった。ほの暗く一点の灯もなかった。私は焦茶色の冬の枯草のなかにふみ込んでいた。左右から、軍隊の建物の影のような巨大な残骸が迫っていた。一片のくさった鉄の骨が私の頬すれすれに落ちかかっていた。私にはさっきから気になることがあったのだ。この練兵場で焼失した第一部隊の建物の残骸は、どれなのだろうかということだった。第一部隊の建物のなかで、その朝に即死した弟の骨を、まだ私は見ていなかった。弟の骨か誰の骨かわからない僅かな骨のきれはしを、母が拾って来ていたが、その骨をさえ私は一度も見ていなかった。西練兵場で道に迷ったいま、どの建物が第一部隊の痕跡かわからないけれども、誰の骨でも同じだと私は思い、このあたりで小さな骨をひろいたい思いにかられた。人一人いなかった。寝台の形をしているが、いちど糜爛し、それから古くなってかたまったような、脚つきの鉄の板が幾列にも並び、点々とひっくり返ったり、宙に突っ立ったりしていた。陸軍病院のあとと思われた。足もとが暗くなって来た。私は怖ろしさのあまり方向も見きわめられなかった。枯草のなかをむちゃくちゃに歩き、崩れ落ちて折れ曲っている鉄筋コンクリートの骸骨に追われるようにして、駈けだした。私は溝のなかに落ちた。つめたい水がぽしゃんと音を立てた。水は腐った匂いがした。溝の幅はひろく、向いの岸にも枯草のつらなりが見えるだけであった。

 私は焼跡の街が一変したために道に迷い、このような失敗をしただけで、外国人などには会わなかったということを、日本人である通訳に話してもかまわないと思った。しかし先方の問いに答える以外、私にはどんな話しをすることも許されていないようであった。

「敗戦後外国人に会うのは、きょうがはじめてです」

 私は念のためにそう云っただけだった。

「あなたのその原稿に、原子爆弾の秘密が書かれていますか」

「いいえ。私は原子爆弾の秘密は知りません。私の書いたのは、広島という都会とそこにいた人間のうえに起った現象だけです」

 アメリカ兵士はからだを曲げて煙草をとり出した。自分の国の煙草の一本を彼は私にすすめた。その煙草を私は辞退した。私は灰皿のないことに気がついた。自分の煙草をもって来たいので、私は中座をことわってから、屋根裏の部屋にあがって行った。普通の灰皿はもっていなかった。私は二間つづきの奥の部屋の方にはいって行った。つまり北側のその部屋は、階下の占領軍の兵士の坐っている南向きの客座敷に対し、反対の側にあたっていた。無意識に私は窓の方を見た。なんとかして、アメリカ兵士とハワイ生れの日本人から逃げ出したい気持があった。私は二人に恐怖を抱いていなかったし、怒りも心の表面をまだそれほど掻き乱してはいなかったが、対等に話すことのできぬ相手との会見を不愉快に思っていた。相手がアメリカ人であるとは云え、すくなくとも、一人の作家にむかって、一方的な質問だけを浴びせられることに、敗戦ということとは個の屈辱感があった。あらゆる日本人が、この調子で占領の檻のなかに当分いれておかれるのだと思った。それにも拘らず私は灰皿に使っている九谷焼の重ね皿を手に持った。一年前この家に当座の宿をたのんできたとき、なにも持たない私に、主婦はこの皿をくれた。彼女の母親が若い日に白粉のとき皿にしていたもので四五分くらいの深さをもって三つ重なっていた。一番下は一寸五分ほどの深さをもっている。九谷と云っても渋くて手のこんだ古風なものでなく、紫や黄や赤で図案風の模様を描いた現代風の安手なものだった。掌にのるほどの浅くて小さい皿の三つ重ねには、同じ図柄のふっくりしたふたがついていた。私は上の二つだけ重ねてふたをすると、それをもって階下にもどった。亜麻色のやわらかな髪をした兵隊と通訳とは、主婦のだした茶をのんでいた。もはや私への訊問は終ったものと思われた。彼の気にしているどこの外国人の誰も私の原稿をよんではいず、私は外国人と原子爆弾投下後の街を歩いた覚えもなかった。原子爆弾の秘密を知っている筈もないから、従って彼の属する当局の質問の核心である外国人と原子兵器の秘密との問題は、私となんらの関係もなかった。私はもっぱら、この米国の情報機関にいる軍曹と思われる兵隊が、私への訊問に際して疑いぶかくなく、執拗でなく、追及してこないことに感心していた。もし日本が戦争に勝ち相手国の誰かを調べるとき、それが文学の仕事をしている相

手であってもなんであっても、取調人の態度はこんなに淡白でないことが思いやられるのだ。こちらの兵隊は初めから疑惑を用意し、猜疑心を準備して、あとでは軽蔑されるためにわざと尊大に喰い下るにちがいなかった。

 金色のうぶ毛の生えた白い大きな手が、五分ほどの深みのある九谷の小皿に、煙草の灰を落している。水のように淡々として、しかも冷めたい彼の顔は、遠いところから散歩に来て、暫く休んでいるとでもいう風に、のんびりとして静かであった。私は相手が煙草を吸っている暫くのあいだに、遠い昔、はじめて外国の女というものを見た日の情緒的な光景を、かなり鮮やかに思いだしていた。それは絵を見た記憶にそっくりなものだったが、その絵のなかの女は絶えずにこやかな笑い顔をしていた。この村からさらに山奥にむかって深くはいってゆく山の村に、私の母の実家があった。私は七つか八つのころ祖母に育てられて母の実家に暮していた。ある日ふいに村じゅうの者が騒ぎだし、村に一軒しかない薬種屋に女の異人が来ていると云って、顔いろが変るくらいに昻奮しはじめた。村を貫いているただ一本の広い往還の、上からも下からも人がうろうろと出て来て、薬種屋の方向に集って行った。どういう気持からか、なかにはよそゆきの着物に着替えて出てきたものもいた。私はその連中のなかにまぎれこんでいた。ぞろぞろと連れ立ってゆく年寄りや子供や若い男女たちは誰からともなく、

「ながいこと、一人息子を待っておってだったに、はあ、異人のおなごを連ろうてもどって、あそこの年寄りは気の毒のことよの。息子さんとおなごはうえへようあがらしてもらえんで、外に立っておんなさるげな」

 と話しあい、長年のあいだ米国に出稼ぎに行っていた息子が、アメリカでアメリカ婦人と結婚し、一緒に帰国したのであることを、小さい私に了解させた。

 薬種屋の店は小綺麗で明るく、さっぱりとしていた。はめ込みの三方の高い棚に大小さまざまな硝子の瓶が並び、うす光っていた。人々はすでに店の入口を遠まきにまいていた。私は人と人とのあいだにはさまり、珍奇なものを覗く眼で、そこの土間を見た。ふみかためて黒いようにつやつやと光っている土間の向うの隅に、こちらを向いて、背の高い雪のように白い女が立っていた。白い服の腰が細くしまって、そこから下はゆっくりとひろがり、波うっているゆるやかな裾の下に、白い靴が見えた。背の高い婦人は紫の造花をつけたボンネットをかぶっていた。その華やいだ帽子の下に、私は生れてはじめて、動いている西洋人の女の顔を見たのだった。日本人の顔よりも小さく可愛いい、白い顔の、金いろの陰影のあるまつ毛と緑色の眼が、みんなの方ににこにこと笑いかけている。こちら側でも誰も笑わなかった。私は華奢な長い腕にかかっている銀いろの鎖のような袋を見た。銀いろのビーズ玉がきらきら光るその小さな手提げがゆらゆらとゆれていた。アメリカ婦人はほっそりした軀を小刻みにうごかしているのだ。彼女は笑わない日本人のたくさんの顔に、絶えずやさしそうな明るい微笑をおくっていた。

 息子は土間から店にあがってゆく上り框にきちんと腰かけていた。そして彼も素直な表情でにこにこしていた。息子と云っても若くはなかった。アメリカで労働してきた彼の軀は、健康そうな張りを見せ、外国の婦人を連れて帰ってきたことを、悔いている様子はなかった。自分たちはなんにも間違ったことはしていないという風に、確信をもった明るい微笑の眼で、時間の経過を待っているようだった。両親や姉妹たちは姿を見せなかった。奥の部屋にかくれている肉親達の偏見が緩和されるまで、自分たちはよろこんで見世物になっているという風に、若い外国婦人と薬種屋の息子は、ときどき目を見交してほおえみ合った。婦人は歩きだした。しなやかに歩いて息子の傍にゆき、そこに置いてあるトランクを引きよせた。息子がトランクの口をひらいた。彼女はトランクのなかに手を入れてなにかを探した。白く透きとおった頰がほんのりと赤らんだ。彼女は絵葉書をとりだした。幾枚も重なっていた。西洋婦人は固唾をのんで見守っている私たちの方に歩いてきた。いっときも消えない微笑をたたえたまま、彼女はみんなに絵葉書を配りはじめた。私は覗いて見た。三色革とかアネモネだとか、水仙だとか、まだ私の見たことのない花の絵葉書であった。絵葉書を受けとらない者も、黙りこくって会釈もせずにうけとる者も、初めて見る西洋婦人の匂いを嗅ぎでもするように、くんくんと鼻をうごかした。私にも白い腕がのびてきて一枚の美しい絵葉書が渡されようとした。私は手を引っこめてうしろにさがった。絵と幻燈写真でしか見たことのない西洋の若い女が、眼の前である行動をしていることも異様であるのに、実際の手から手に物を渡されるのはさらに不思議であった。西洋婦人は良人を愛しているために、良人の故国にきて、そのうえ異様な田舎の人々に好意をしめしているのだということを、私は本能的にぼんやりと感じていた。私は絵葉書をうけとることを拒みはしたが、腕にさがっている銀いろの可愛いい手提げから眼を難すことができないし、婦人を美しいとおもった。

 その日から以後、三十何年間、私はときどきその西洋婦人の姿と運命を思い出していた。外国人を見る機会は多かったが、現在になって美しい婦人だと思うどんな外国人に比べても、昔日、山奥で見た初めてのその人より美しくはなかった。実際は、うつくしい婦人でなかったかも知れなかった。猿のような顔、あまり品もよくない、上等の服装でもないひとだったかも知れないのだ。その婦人に関する限り、私は過去と現在との脈絡について深く考えたくなかった。それにも拘らず、アメリカ占領軍の兵士とテーブルを中に向きあっているいまの立場で、私は遠い日に見たアメリカ婦人の幻影を、なつかしそうに見ていた。

 アメリカ兵士は煙草を吸い終って、通訳になにか云いかけた。ながい言葉であった。通訳は私に云った。

「あなたに原子爆弾の思い出を忘れていただきたいと思います。アメリカはもう二度と再び原子爆弾を使うことはないのですから、広島の出来ごとはわすれていただきたいと思います」

 私は間をおいてから答えた。

「わすれることはできないと思います。わすれたいと思っても、わすれない気がしています」

 二人は黙っていた。

「市民としては忘れたいと思っていますが、わすれるということと、書くこととは別です。遠い昔の忘れていたことをも、作家は書きます。その意味ででも私はわすれることをお約束することはできません」

 この答えにも相手は言葉を返さなかった。

「私の方もおききしておきたいことがあるのですけれど」

「答えられることでしたら答えます」

「こんどの原子爆弾のことについて、非公式に科学的な発表以外は許可されないということをきいていますが、表向きにはどんな禁止事項も出ていないことも知っています。それはどういうことなのでしょう」

「そのことについては、今は答える任務をもって来ていません」

「わたくしは発表できなくても、書かないわけに行きませんが、発表していけない個所は、原爆の秘密は知りませんから別として、残忍なあの現象がいけないのでしょうか。それとも全部がいけないのですか」

「そのことについても、私は答える任務をもってきていないので、答えることができません。原子爆弾のことを忘れていただきたいと思うだけです」

 アメリカはふたたび原子爆弾を使用しないというアメリカ兵士の言葉を、私は真にうけていなかった。日本にそれを使用したことは、次のより大きい戦争の危険を生む可能性をもったものとして、私心の痛は抜きがたいものであった。

 このとき私はふいに言った。

「日本で発表できなければアメリカへプレゼントします」

 私の胸に突きさすような憤りがとつぜん走ったのだった。はじめて兵士の眼のいろが動いた。かすかな哀しみのような影がさし、そしてすぐに消え、返事はなかった。

 兵士は横を向いた。そこには扉のひらいた仏壇があった。仏壇には蠟燭の火が燃えていた。兵士は空漠とした眼で無関心に仏壇を見ていた。私は白布につつんで扉のなかにおいてある木の箱には、ここの主婦の良人の遺骨がはいっているのだと、兵士に云った。遺骨がはいっていることにはなっているけれども、じっさいには主婦が何度ふってみても骨らしい音はしない、少しの髪の毛と手の爪とが、戦地に行く前寺にあずけてあったから、それをいれてかえされたものと思われると、私は云った。主婦は遺骨の箱を手にしてから二年経っても、なかを見ることができないのだと私は云った。兵士の眼はかるく眼ばたきした。しかし心はうごかない様子だった。彼は多くの悲惨をきき、また目撃した経験者なのであろう。たったこのあいだまで敵国であった国の、個々の人間の背負った悲劇に、一つ一つ心をうごかすことは不可能のようであった。

 兵士は灰皿代りの九谷の皿を大きな掌にのせた。

「これは骨董か」

 彼は興味もなく訊いた。すぐ皿を卓においた。

「九谷は九谷ですが骨董ではありません。新しいものです」

「アメリカ人はすべて古いものを好みません」

 通訳がとりついだ。

「日本ではどこに行っても古いものを自慢にし、尊重しているが、アメリカ人は骨董的な古さに好奇心をもつことができないのです。飛行機も自動車も一昨年の型よりは昨年の型の方を、昨年の型よりは今年の新しい型の方をよろこぶし、興味をもちます」

 私はふいに異様な思いに陥った。アメリカの資本主義の生む戦争兵器の高度の発展を、意識しないままこの兵士は云っているのだ。彼は機械文明の性格を無意識に暗示し、私も冷酷な困惑に落した。

 この数分後に奇妙な事態が起った。アメリカ兵士と通訳とが辞意を表して座を立とうとしたとき、それが起きたのだ。私は九谷の重ね皿の灰をふきとり、蓋をして、兵士にさしだした。

「ここへ来られた記念にもっていらっしゃいませんか」

 兵士は笑わぬ無表情な顔でうけとった。彼は最初からそれをほしがってもいなかったし、ほめもしなかったのだ。彼が仕方なさそうに皿をじかにポケットに押しこんだ瞬間、私は自分の胸がすっと傷つくのを感じた。遠方からきたことをねぎらう気持の表現ならば、傍に色の黒い丸顔の通訳もいっしょにいた。通訳にはなにもやろうとしなかった。彼は終始ものやわらかな角のない態度を変えなかった。けれど彼の様子はどことなく、うら寂しいコスモポリタンのように見えた。日本人でもなく、アメリカ人でもなく、困難さえももたぬ一介の貧しい職業通訳の姿であった。

 子供たちはながい時間かかって、アメリカ兵士の出てくるのを待っていた。二人が出てゆくと子供たちは堆肥小屋や木小屋の軒下から勢いよくとび出てきて、兵士の無愛想な顔に笑いかけた。兵士は誰をも相手にしなかった。道端にジープがおいてあった。ジープの方に歩いてゆく背の馬鹿高い兵士と、丸々とした小男とを子供たちといっしょに私も見おくるのである。この山上の村にもいまだにかくされているかも知れない刀剣類や小さい兵器や書類などの調査のために、絶えずジープに乗ったアメリカ兵がはいってきていたから、子供たちもいまは別段彼らがめずらしいわけではない。チューインガムやチョコレートを道端に投げ与えられ、寄りたかって拾って食べる経験も積んでいたが、子供たちは今日の兵隊がそういうものを投げてよこしたりしないことも知っているのだ。けれども子供たちは笑いかけることをやめなかった。兵士の背のあまりな高さがおかしい風でもあった。戦争に負けたことがおかしい風でもあった。巨大な戦争が一先ず終ったあとに、なお自分たちが生きているという現在感がおかしいのかも知れなかった。私はしかし子供たちの笑い顔と、私がはじめて兵士にむかって笑いかけた顔とが同一のもの、つまり無意味であいまいな、そのくせそれははっきりと怯懦なものであるにすぎないことを知っていた。

「遠いところ、わざわざご苦労さまでした」

 私はジープに乗り込む通訳に云った。片側の山になった往還を、ジープは非情な硬い姿で疾走し、消え去った。

 私はいそいでもとの座敷に引きかえした。幸い、あまり敏活でなく気のきく性質でもない主婦は、客の去ったテーブルに手だしをしていなかった。九谷の皿のなくなったことを私はいますぐ主婦に知らせてはならない。彼女は私が占領軍兵士にその重ね皿を意味もなくやってしまうことを承知して、無一物の私にそれをくれたのではないのだった。彼女がそれを知った場合、アメリカ兵士が皿をもって行ったというそのことよりも、私がアメリカ兵士にどんなに無価値なものにせよ、贈りものをしてしまったという行為について考えないではいないだろう。主婦は傷つくにちがいなかった。彼女はアメリカ兵士が立ち去るとき、故意に見送らなかった。私は階下の幾間かを通りぬけて、主婦の姿をさがした。彼女は奥まった裏座敷の炬燵にはいっていた。さっきまで来訪者のいた仏間の次に、もう一つ奥まった客座敷があったが、この部屋はその座敷の裏側になり、真北にあたっていた。 主婦は編物の棒をうごかしていた。黒の古くて弱った毛糸が、主婦の手首にちぢれてからんでいた。子供の小雪は主婦の膝に顔をつけ、うずくまった恰好で昼寝をしていた。 主婦はまぶしそうな目でちらと私を見た。柔和で陰気な微笑であった。

「お座敷をありがとう。お手数かけて、ごめんなさい」

 私は主婦の横から炬燵に膝をいれた。

「いいえ、どうしてええやらわかりませんから、放っておいてすみませんでした」

 編物の手をとめて寡婦は私を見た。もの思わし気であった。彼女は云った。

「いま来た男、機械のような男でしたのう」

「ええそうよ。機械と機械が通訳をあいだにして話しているような気がしたわ」

「もしか連れて行かれなさるのではないかと思うて、気が気でのうて、立ったり座ったりして落ちつかんから、毛糸をとりだして編みだしたんですよ。もしつれてゆくようなことがあったら、尾山先生のところへとんでゆこうと思うて、足袋をはいて支度しておりました」

 万一私が運行されるような場合、どうして村に一人きりの医者のところへとんで行くのか、私にはわからなかった。

「尾山先生? どうして」

「尾山先生しか、この村で英語の話せる人がおらんのですよ」

「あの先生、話せるんですか」

「ちょっぴりでしょうがのう。戦争中に、それ、この河津の山の谷にグラマン戦闘機が落ちた話をきいておられるでしょう。学校から帰る途中の子供らを、低空飛行で追いかけてきて、うちまくったその男ですよ。落下傘で谷に降りたんですが、誰もおそれて行って見るものがのうて、尾山先生ならお医者で英語もわかるからゆうて、探したが家にもどこにも居られなかったのですよ。 寺に行って酒をのんでおられるのをやっと探しだして、山へ行ってもらったのですがのう。そのときアメリカの兵隊は、道の真中を走ってゆく人間を、飛行機から追いかけて撃つのは、とてもおもしろいものだゆうとったそうです。それだけのことが尾山先生はききとれたのですけえ、今日もしものことがあったら、来てもらおうとおもうておりました」

 静かで落ちついた、ゆっくりした声の調子だった。私は彼女のこの静かさに馴れていた。えぐるような悲しみを私に訴えるときにさえ、激情を消した低いもの静かな様子でしか話さなかった。ときにはおもおもしくさえ感じるほど、戦争寡婦のみじめさを、のろのろと愚鈍に打ちあけてきたのである。彼女は良人の戦死の公報がきたとき、土蔵の二階にいた。夏の土用のはじまりだった。良人の衣類を虫干しするつもりで、つづらの蓋をあけていた。毎年夏ごとに干していたから、悪い匂いはしなかった。絣や縞の和服に、着物の匂いがあり、良人の匂いがただよっていた。二三枚の着物をとりだしたとき、公報をもった男が下の入口から声をかけた。 彼女は刹那的に寡婦になったことを感じた。土蔵の階段の入口まで、思わず良人の着物を足首にからめて、ずるずるひきずってきた。彼女はそれきり丸二年半、土蔵の二階にあがってゆかず、蓋をとったつづらと床に引きずった良人の着物はいまもそのままになっているのだ。戦死の公報を知るとすぐ、寡婦は時を移さずさっさと村から逃げだした。村の連中がよってたかって弔辞をのべにくるにちがいないからであった。寡婦になった顔を見られたうえに、慰撫の言葉を浴びせられる。彼女は姿をくらますために、実家の村にゆく乗合自動車に乗った。車がだいぶ走ってから、彼女は二歳の小雪をおき忘れて来たことに気がついた。車を降りて連れてゆく気はしなかった。小雪を自分の子ではなくなった気がした。バスの一番奥に腰かけ、うしろの硝子窓を流れる山野の風景を見つめて、ひた泣きに泣きとおした。実家に着いて、両親やきょうだいに思いやり深くなぐさめられると、ふり切るようにして再び乗合自動車に乗った。車のなかでは自由に泣いた。乗合自動車のなかに良人の思い出の影があった。二人でいくどこの石ころ道を車にゆられて行ったかと思った。家に帰ってくると彼女は黒い紋服を着た。すぐに乗合自動車に乗った。小雪をつれていた。子供を放っておいて一人で泣いた。実家に着くとまたすぐに引き返した。バスのなかにだけ勝手に泣く場所がある気がしたのだ。女の情感だけが車のなかにさまよい、寡婦はそれになぐさめられた。

 一年経過してから、家婦は持山の畑で土をおこしていた。良人は土を深く掘ることが好きだった。彼は土の愛し方を妻に教えておいて戦場に発った。寡婦は地下足袋をはいていた。背の高い、やわらかなからだであった。フレアのついた手製の白い帽子をかぶっていた。山裾の小径の下で誰か女の声がよんでいる。高い調子のついた声だった。寡婦はびっくりしたように、手からかま鍬を落した。下ぶくれのふっくりした皮膚のうすい顔に、陽があたっていた。寡婦は山道を駈け降りて行った。呼吸をとめていた。

「うちのがもどった?」

「醤油ができたけえ、くばりに来た」

手ぬぐいをかぶった女が、大豆や麦をだしあって作ったをとどけに来たのだった。

「早う降りてこいというから、もどったのかと思うた─」

 葬式をした戦死者が帰って来た事実がどの村にもあった。寡婦は家の裏手の道端にある竹藪のなかに、ある夜、野宿をしている兵隊あがりの男に、しつけて顔を見た。良人には似てもいない青年だった。若い男は乞食のように見えた。ふるえていた。もっと山奥の村に帰ってゆくのだという男を、寡婦は台所に布団を敷いて寝せた。この男は警察に追われている泥棒であった。寡婦の家の米と衣類を盗み去った。

 私がこの家に仮寓するようになってからも、寡婦は山の上の畑から、下の道路を絶えず見ていて、いきなり駈け降りてくることがあった。家の裏の道には、乗合の停留所はなかった。乗合自動車が故障して、停留所でない家の裏手でとまったり、乗合でないどこかの自動車が偶然そこをゆっくり走ったりするとき、彼女はにわかに走り降りてくるのだ。そして寡婦は遺骨の箱の蓋を、いまだに開けなかった。

 私は九谷の皿のことはおくびにも出さず、根裏の部屋にあがってきた。この部屋は本来の環境から云って静かであるべき部屋であった。けれども現実は、期待にくらべてえらく背を向けていた。私はこの時期、つまり敗戦後の私自身の生死観のなかで、ひたすら田舎の静寂な空気によって傷の疼きを洗おうとしていた。すべてのもの音に並はずれて過敏になっていたが、山あいの村の本来の静謐のなかに、人を裏ぎるような間断ない雑音が錯綜していることに私は気づいた。季節の順を追って、三月のはじめにまず土下からよみがえった蛙が、ある夜ふけにゲロッゲロッと短くつぶやきだすのだ。

 彼らはごく初めのころ、人の寝しずまった夜中に、弱々しくゲロッと啼いて、人の郷愁さえもそそった。それからは日ごとに元気づき、あわただしく繁殖してゆくさまが見えるようであった。私は月の明るいある晩、水田の傍の道を歩いていた。田のなかにも一面に月光があった。植えたばかりの若々しい稲が、なにかの芽立ちのように、つんつんと立って並んでいた。私はまだ稲の植わらぬ以前の水田に、空の星が万べんなく落ち散っているのを見たことがあった。月夜の田の水に、稲の苗はみどりの絣の布のようにひろがっていた。自然は人をだますように冴々と美しい夜の姿を横たえていた。私は眼を見はった。蛙の大群が水田のいたるところに跳梁していたのだ。彼らは黒く青く、集団になってとび交っていた。これが蛙合戦なのであろうかと私は思った。気温があがるのに従って、蛙の声は大きく強くなり喧噪をきわめた。ガ行のあらゆる音の構成のもとに、一大交響楽を演じるが、一瞬の間も美しい音いろはなかった。彼らは夜のあいだ一刻も演奏を休まなかった。夜があけてしまうまで休止はないのである。私は鮭の巣窟のなかにとじこめられて眠っている気がした。私はあることに気がついた。

「友和村の宇河津って、その河津は蛙のことだったんですか。気がつかなかったわ」

「河津原といいましてのう。昔から蛙の原だったのでしょうて」

 寡婦は平気な顔で答えた。蛇はとっくに蛙をねらって歩きまわっていた。外では蛙を狙い、家の中へは鼠をねらってやって来た。ねずみは屋根裏部屋の私の先住者であった。彼らは間借人である私を尻眼にかけ、自由自在に活動した。夜、寝ている私の布団のうえをとび廻り、油断すると額や手をかじった。私は夜じゅう起きて坐っていた。ねずみを退治する方法を知っていたが、それは薬品によるもので、薬品はまだ売っていなかった。古い家の厚味をもった木の戸棚や押入や、作りつけの古風な簞笥などを、大小の鼠たちは徹夜してかみ通すのである。私は山から松の枝をとってきた。鼠の出入りするあらゆる穴に松葉を埋めた。鼠は松葉の枯れるのを二三日待っていた。私は松の枝を切るため、一日おきに山に行った。ねずみは私よりも蛇を怖れていた。ねずみがなんとなくおとなしくなったと思ったじぶん、蛇がのっそりと私の部屋に出入りしはじめていた。夜あけのうす明りのなかで、私は自分の寝床の足もとに、黒ずんだ太い紐が輪状にうずくまっているのを見た。黒い紐はうごいていた。その片方の一端がもちあがったと思うと、赤い絹糸めいた細い舌が、ちろちろと敏速にうごいた。蛇の顔は私の方を見ていた。田舎生れの私は、少しきざなほど大騒ぎして蛇を怖れる人に比べ、もともと騒ぎ立てるほどでなかった。けれど部屋での同居ははじめてで、度胆をぬかれた形で食欲をうしなった。蛇は私に危害をあたえようとして部屋を這い歩いているのではないと寡婦は私に云った。蛇は家中にいるのだ。米びつの蓋をとって蛇がうずくまっていると、小雪が手づかみにして外にだした。蛙や鼠の騒然とした活躍のために、充分な眠りのとれなくなった私が、つづいて蛇のため殆んど眠りをとらなくなったのにたいし、小雪があどけなく云った。

「線香に火をつけてけぶりを立てておきんさい。蛇が蒼い顔になってどんどん逃げてゆくよ。とうとうしまいにはいって来んようになる」

 すぐに私は実行した。昼のうちも線香を立てて読書しだした。すると机の真正面、鼻さきの畳のうえに、蛇がどさりと落ちてくるのだった。蛇はいったんもりあがるように、うず高い輪になってから這い出すのだ。彼が蒼い顔をしているかどうか私にはわからなかった。寡婦は笑って私に云った。

「蛇もはいって来んような家は、ろくな家でないそうです。蛇のはいってくるのはええことのあるしるしですと。うちのがもどってくるかも知れません」

 落莫としたこの広い家で、蛇に関する限り、主婦と私との利害感は逆であった。蛇が姿を消す季節、十月の終りになると、この村の寒気がはじまった。乗合自動車のとまる峠のうえの高原から、寡婦の家のもっと先までの字名を河津原と云っている。そしてそこは「唐箕の口」という別名をもっていた。脱穀機である唐箕の口が扇車を廻すときに吹きおくる風を意味しているのだった。村から他所に行っている者たちは、季節の見舞いのたよりに、唐箕の口の冷寒について、今年ももう冷酷なその寒さにおそわれているだろうと書いてきた。

 私は二月の深夜、耳と背中の切り傷が、ちくちくと痛んで眼をさました。原子爆弾落下当日にうけた製傷は、一応癒えていたにも拘らず、唐箕の口の寒気は、傷口をひらいた。カーキいろの軍服を着た兵士が、私の調査にきた冬にも、私の耳と背中の傷はいくぶん口をあけていた。だいたいにおいて私はぽかんとしていた。自分の癒えがたい虚脱に、私は充分気がついていなかった。憤怒や怨恨は私という沼の底に沈んでいて、容易に表面へ立ちあがって来なかった。私はそれを知っていた。

 私の部屋から九谷の皿が無くなってから、二三日経った。私と寡婦は、熱すぎる炬燵にはいっていた。私は訊いた。

「なんだかこのごろ毎朝、くらいうちに、げッげッて啼いているけど、あれはなんですの?」

「ふくろうですよ」

「梟なの。げげっげげって、にわとりが病気なのかとおもったわ」

「女のふくろうですよ。いやな声で啼きます。こんなでしょう?」

 寡婦は頣を仰向けて、 げげッ、げげッと雌のふくろうの啼き声をして見せた。

「わたしもいまに、女のふくろうのような、いやな声で、泣くようになるやらも知れませんがのう」

 私は私がなんの気なしに、アメリカ兵士に寡婦からもらった九谷の皿をくれてしまったことを手短かに話した。

「ごめんなさいね。あとでちっと云って自分に舌をだしたけれど、間にあわなかったのですよ」

「ええですよ」

 寡婦はやわらかい笑い顔を、べつだん曇らせなかった。

「あの男がうちのを殺したわけでもないでしょうけえ」

 私にとってこの返答は無意味であった。ぬるりと掌から落ちてゆく、骨のない虫のようないやな手答えをかんじた。私の心の一個所がはばたいた。一気に私は云った。

「戦争中、中国へ行ったときね、日本人へやたらにものをくれようとする中国人を、いやなやつだとおもったわ。北京の停車場につくと、中国の民衆が荷物をプラットホームにじかにひらいて、中国のお巡りに調べられているの。ぞろぞろと並んでいる群衆を、やはり男や女の中国のお巡りが、身体検査していたのよ。城門の出入りにもバスをとめて、一人々々を降ろしてね、荷物とからだを調べているの。むろん日本の軍隊がそうさせていたのよ。それでいて中国の金もちたちときたら、日本人を豪勢な食事に招待したり、芝居を見せたり、いろんな品物をくれようとしたりするの。これだからこの連中は亡びてゆくのだと思ったわ」

 私は慙愧のために口をつぐんだ。昭和十三年という歴史的な時期に、私は中国への最初の旅をした。日本から逃避的な気持ちの濃い旅だった。占領者の感情はなかった。船の三等の室から塘沽にあがった。天津にゆく汽車にも私は三等に乗った。三等に乗っている日本人はほとんどいなかった。三等車には中国の民衆だけが充満していた。私は和服を着ていた。中国民衆は私を一瞥もしなかった。申しあわせてでもいるように、眼をふれず、私の眼をうけつけなかった。前の座席に二人の若い瘠せた男が腰をかけていた。私は中国の民衆の心を覗きたい衝動にかられ、そのために三等車をえらんだのでもあったから、前の座席の青年の眼のなかを見ようとした。彼らは私に自分たちの眼を覗かせなかった。顔を窓外の広大な野に向けたまま、身うごきもしなかった。彼らは私が天津で降りる三時間のあいだ、ついにいちども私の方に顔を向けなかったのだ。彼等は眉をあげていた。眼尻がかすかに光っていた。私にとって彼等の日本人蔑視の眼尻の光はすがすがしかった。

 北京の金持連中や役人たち、有閑婦人たちはしきりに私を芝居や食事に招いた。彼等は私自身を歓迎するために、昼間のうちから食事に招いたり、夜の十時から夜あけにかけて芝居見物をしたりしているのでなかった。私を囮にして彼らの政治的社交がくり返されているのだった。囮は手ごろであれば誰でもかまわないのだ。自分の位置が崩れぬ方途、睨まれたり損をさせられたり、意地わるくされたりすることのないように、彼等はいつも日本人とのほどいい接触を保っていなくてはならなかった。私は次第にそういう連中から逃げた。日本人への抵抗は貧乏な連中、青年たち、貧しい女たちのなかに、かすかに光っていた。その連中は黙殺や無関心、ときには堂々と日本や日本人をこきおろし、批判することで私を彼らに近づけた。このことはながいあいだ、私の心の秘密になっていた。

 寡婦はなにもいうことがないというように、だまっていた。その顔にはほとんど表情はなかった。無心なほどぼんやりし、ここにも虚脱の深さのみがあった。私は寡婦というよりも、自分にむかって独りごとを言った。

「私、もっと山奥にはいってゆきたいわ」

「え? まだ山のなかにはいられるのですか」

「山のなかにゆくと、大きな木の根っこに、ほら穴があいてるのがあるでしょ。ああいう穴のなかに一二年、じっと坐っていたいわ」

 酔うように私は云った。隠遁のおもいは戦争中から芽をふいていた。いまは隠遁に都合のよい機会のような気がした。血の泥濘のなかに見た、死体の顔の、その量のおそろしさからのがれたい。私はしびれるように山のなかでの睡眠をのぞんだ。けれども時間とともに、私の心は人の棲む社会現象の上方にうごいて行った。人間の犯す混乱のなかに交って、こちらも混乱しつつ生きて見なくてはならぬ。

 ─昭和二十四年、私は寒波の通路であった山上から、東京に帰ってきていた。生活は崩れ、こわれたまま、住む家もなかった。雪がふりはじめ、道は凍てついていた。同棲者の三作は北海道に発ったあとだった。彼は混乱期の東京での足ぶみを好まなかった。炭鉱の現場で、彼は己れを実験しようとしていた。私は雪の日、丸の内の外人クラブに泊っているアメリカ人の旅行者に会うため、足駄をはいて外に出た。足駄をはいて歩くことが苦痛であった。外国人に対しては、時間を正確にまもらなくてはならぬという、この日の計画者の藤谷房枝の注意にたいし、私は軽い反撥をかんじていた。表面はていねいであったが、先方の都合のよい時間に、よびつけられてゆくのである。

 クラブの扉をあけてはいったとき、約束の時間の五分まえであった。広間に若い二世の通訳と、女友達をつれた藤谷がすでに姿を見せていた。アメリカの旅行者はエレベーターで降りてきた。

「ようこそ、ようこそ」

 太ったうえに、雲つくような大きな男は、初対面の私に、あふれるような愛想笑いをふりまき、恐ろしく大きな手をさし出した。私は払いのけるような眼で、その手を眺めた。外国の男は手をもじもじさせた。ふいに習慣を破られた大きな手は、まごついた揚句、私の眼の前から引き込められた。旅行者は階下の食堂で、私たちに昼食をふるまった。彼は私たちを昼食に招待したのではなく、忙しい時間をさいて、彼自身の食事をしなければならなかったのだ。時間をとらないように簡単な食事が終った。彼は愛想よくふるまっていたが、彼の核心である「自分の仕事」のために、一刻の時間もおしんでいるように、三階にゆくエレベーターの箱のなかに、彼は私たちを追いこんだ。三階の小部屋は粗末で飾り気はなかった。旅行者が携帯して歩く小さなタイプライターが、隅のテーブルにひっそりとすわっていた。彼はせかせかして、タイプライターの横から、色とりどりの缶や菓子の箱をもって来た。私たちは、うすよごれた丸いテーブルのまわりに、くるりと輪になって腰かけていた。旅行者は、菓子や落花生を、テーブルのうえに、じかにとりだした。藤谷房枝や、連れの女や、通訳や私の、一人々々の鼻さきに、すこしずつじかにくばった。閉まった硝子窓の外に、雪がちらついていた。旅行者は大いそぎで手帳と数本の鉛筆を用意した。彼はアメリカのある週刊誌の記者で、また旅行記の著者であった。

「あなたのソヴェト旅行記は、アメリカでどれくらいの部数がでました?」

 藤谷は、なにかの意図をふくんだ、艶めいた声で訊いた。彼女は大衆向きの娯楽雑誌の経営者だった。

「六十万部。アメリカではそれ以下の部数では、最初から本をだしません」

 旅行者は、藤谷の社交的な、華美な姿態に釣りこまれたように、快活な笑顔で答えた。

「まあ、素的だわ」

 藤谷は胸を抱いて云った。

 アメリカのジャーナリストは、ソヴェト旅行記を書いて、そして日本に来たのだった。日本旅行記を書くためだった。通訳の一人が私に云った。

「テイラーさんはね、一ヶ月前、東京へつくとすぐその足で、通訳と二人きりで千葉の田舎に行ったのですよ。都会を見るまえに田舎を見なくては、その国がわからないというのです。千葉の、まだ外国人の顔をいちども見たことのないという村にはいってね、農家に十日も泊りこんできたところです」

 自分の仕事に、地味な意欲を抱いているまだ若いアメリカ人記者に、私は僅かな好意をもった。しかし私は、自分が今日この場に出てきたことを後悔しはじめていた。藤谷の電報や速達によって、テイラーが私から広島の原子爆弾の話をききたいという、その申入れを私は承諾してここに来たのであった。

 彼は自分の旅行記のために、私と藤谷と、藤谷のつれの真赤な服を着た若い女とに向って、日本の封建制度による婦人と社会とのむすびつき、婦人と政治との関係、宗教や恋愛や結婚への新旧の考え方など、殆ど全般にわたる問題を、問いただした。旅行者はいそがしく書きとった。

「ちょっと、ちょっと」

 彼は自分の質問の混乱から生じる、どさくさした私たちの返答を手で押えた。彼は多量に書きとった。小部屋に煙草の煙がこもってきた。私は沈んだ顔をして、煙草の煙を見た。旅行者は私をちらと見た。いそいで立った。彼は鷲づかみにするような手つきで、硝子窓を上に押しあげた。私を見た。しかし彼は原子爆弾のことにふれなかった。はじめからそれは予定していなかったように、一言も質問しなかった。なにかに私は気がつきかけていた。自分に向けられた、どこかほのぐらい眼にむかって訊いた。

「こんどの旅行で広島にゆかれますか」

 相手はかすかにためらったようだった。

「いっさいの仕事が終ったあと、時間に余裕があったら、立ちよってみたいと思います」

 藤谷が私へのある困惑から、低い声で云いかけた。

「この作家の『死の街』をおよみになりません? なんでしたら私からおとどけします」

「私は本をもらっても、日本語がよめないのですよ。もし英訳があれば、読みたいと思いますが、しかし、アメリカでは非常に大部数出る見通しがないと、出版しません」

『死の街』は東京で出版されていた。しかし重要な個所に多くの削除があった。それをそのまま、アメリカで出版する気持を、私はもっていなかった。原子爆弾投下が人間に与える現実の状態が、いかなるものであるかということを、私はアメリカのジャーナリストに語っておきたかったのだ。

 雪はやんでいたが、窓からつめたい風がふきこんで来た。旅行者は機敏に立った。そして窓をおろしながら云った。

「赤い風がふいてくるから、早くしめましょう」

 みんな笑い声を立てた。その建物に隣接して、ソヴェト代表部の宿舎があったからだった。藤谷の手の指で、いくつかの指輪の石がきらきらと光っていた。旅行者は自分の著書をとりだして、丸いテーブルのうえにおいた。ソヴェト旅行記であった。どっしりとした厚味をもち、豪華な体裁をもった一冊の本が、藤谷の手に長いあいだ持たれていた。

「私の方に、いただきたいわ」

 翻訳権の交渉は、すでにもっとはやくからすすめられていた風だった。藤谷は歌舞伎や能や、ダンスホールの話を、あたかもその舞台を見るように、鮮やかに話していた。

「いらっしゃいません?」

 訓練された流し眼に、あまい、つややかな情感が見られた。旅行者は釣りこまれながら答えた。

「いっさいの仕事を片づけてから、時間上の余裕がありましたら」

赤い服の女が訊いた。

「夫人は? ごいっしょでないのですか」

「私は三十五歳ですが、独身です。ごらんの通り、美男子でないため、なかなか結婚の相手が見つかりません。そのうえ私は非常に忙しい旅行者で、同じところにながくじっとしていないので、家庭をもつことが不可能に思えます」

 彼は巧妙であった。最後まで原子爆弾の話をさけたが、注意ぶかく私を見、黙殺はしなかった。旅行者にとって、もう用事のなくなった私たちは、ふたたび昇降機で階下に降りた。アメリカ人は、私の防寒コートをボーイの手からうけとった。私に着せかけようとした。私は彼に背をむけなかった。背丈のまるでちがう彼と私は、ぎこちない身ぶりで、互いの苦渋をかんじあっていた。何気なく私は彼の大きな手からコートをひきとった。こんどは私の衿巻をもって旅行者は、うしろにまわり、私の肩にかけようとした。私はそれをことわった。

「私たちには、こういう習慣がないので、馴れませんから、じぶんで着ます」

 自分のものを、私は勝手に自分で身につけた。彼はまた握手のためにながい大きな手をだしてきた。それは日常の習癖による、手の自然な運動に見えた、私は反射的に手をかくした。私の手がコートのポケットにはいってしまうと、旅行者の手は習慣をうしなって、かるくまごついた。しかしなんの感情も伴わぬ彼の手は、自然な、素直な様子で徐々にひっ込んで行った。