栗原貞子『ヒロシマというとき』


 社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)が争ったベトナム戦争。戦争の激化とともに、テレビ報道やニュースなどにより多くの国民が戦闘の場面をその日のうちに視聴することで、事実を目の当たりにするようになった1960年代後半、「ベトナムに平和を!市民連合」(通称:ベ平連)による反戦運動が次第に高揚するようになった。しかし、そんな中でも、原子爆弾の使用を正当化する声は相次いでいた。

 そんな現状を見ていた栗原貞子は、とても重要な視点に気づいた。

アメリカの原爆使用は絶対に容認できない。しかし、広島・長崎の悲惨を訴えるだけではアジア・太平洋の人々の共感を得られないのではないか。日本が過去にやってきたことを反省し、再び軍事大国にならないという決意を示したとき、初めて広島の心は受け入れられるのではないか。

 

 被害者としての視点からのみで戦後のヒロシマを描くのではなく、原点に返り、そもそも戦争とは何か、戦争は何をもたらしたのかについて考え、戦争を否定するためには何をするべきか追求する。原爆被害者もまた、軍都廣島の市民として侵略戦争に協力した加害者としての自身の責任を問う。つまり、日本は被害者であると同時に加害者でもある、という視点で見ていかなければならないという考え方から、1972年5月、『ヒロシマというとき』は生まれた。

 

 今日では「被害」と「加害」の両方の側面から考えることが定着しつつあるが、その先駆けは紛れもなくこの詩であり、また、栗原貞子は、「ヒロシマ」を考察する上で、日本の「加害責任」に言及した、日本初の詩人である。


〈ヒロシマ〉というとき

〈ああ ヒロシマ〉と

やさしくこたえてくれるだろうか

〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉

〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉

〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を

壕のなかにとじこめ

ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

〈ヒロシマ〉といえば

血と炎のこだまが 返って来るのだ

 

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは

返ってこない

アジアの国々の死者たちや無告の民が

いっせいに犯されたものの怒りを

噴き出すのだ

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしくかえってくるためには

捨てた筈の武器を ほんとうに

捨てねばならない

異国の基地を撤去せねばならない

その日までヒロシマは

残酷と不信のにがい都市だ

私たちは潜在する放射能に

灼かれるパリアだ

 

〈ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしいこたえが

かえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめねばならない

(詩集『ヒロシマというとき』 1976年3月)