原民喜『廃墟から』


 八幡村へ移つた当初、私はまだ元気で、負傷者を車に乗せて病院へ連れて行つたり、配給ものを受取りに出歩いたり、廿日市町の長兄と連絡をとつたりしてゐた。そこは農家の離れを次兄が借りたのだつたが、私と妹とは避難先からつい皆と一緒に転がり込んだ形であつた。牛小屋の蠅は遠慮なく部屋中に群れて来た。小さな姪の首の火傷に蠅は吸着いたまま動かない。姪は箸を投出して火のついたやうに泣喚く。蠅を防ぐために昼間でも蚊帳が吊られた。顔と背を火傷している次兄は陰鬱な顔をして蚊帳の中に寝転んでゐた。庭を隔てて母屋の方の縁側に、ひどく顔の腫れ上つた男の姿――そんな風な顔はもう見倦る程見せられた――が伺はれたし、奥の方にはもつと重傷者がゐるらしく、床がのべてあつた。夕方、その辺から妙な譫言をいふ声が聞えて来た。あれはもう死ぬるな、と私は思つた。それから間もなく、もう念仏の声がしてゐるのであつた。亡くなつたのは、そこの家の長女の配偶で、広島で遭難し歩いて此処まで戻つて来たのだが、床に就いてから火傷の皮を無意識にひつかくと、忽ち脳症をおこしたのださうだ。

 病院は何時行つても負傷者で立込んでゐた。三人掛りで運ばれて来る、全身硝子の破片で引裂かれてゐる中年の婦人、――その婦人の手当には一時間も暇がかかるので、私達は昼すぎまで待たされるのであつた。――手押車で運ばれて来る、老人の重傷者、顔と手を火傷してゐる中学生――彼は東練兵場で遭難したのださうだ。――など、何時も出喰はす顔があつた。小さな姪はガーゼを取替へられる時、狂気のやうに泣喚く。

「痛い、痛いよ、羊羹をおくれ」

「羊羹をくれとは困るな」と医者は苦笑した。診察室の隣の座敷の方には、そこにも医者の身内の遭難者が担ぎ込まれてゐるとみえて、怪しげな断末魔のうめきを放つてゐた。負傷者を運ぶ途上でも空襲警報は頻々と出たし、頭上をゆく爆音もしてゐた。その日も、私のところの順番はなかなかやつて来ないので、車を病院の玄関先に放つたまま、私は一まづ家へ帰つて休まうと思つた。台所にゐた妹が戻つて来た私の姿を見ると、

「さつきから『君が代』がしてゐるのだが、どうしたのかしら」と不思議さうに訊ねるのであつた。

 私ははつとして、母屋の方のラジオの側へつかつかと近づいて行つた。放送の声は明確にはききとれなかつたが、休戦といふ言葉はもう疑へなかつた。私はじつとしてゐられない衝動のまま、再び外へ出て、病院の方へ出掛けた。病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、

「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子を喪つていたし、ここへ疎開するつもりで準備してゐた荷物もすつかり焼かれてゐたのだつた。

 

 私は夕方、青田の中の径を横切つて、八幡川の堤の方へ降りて行つた。浅い流れの小川であつたが、水は澄んでゐて、岩の上には黒とんぼが翅を休めてゐた。私はシヤツの儘水に浸ると、大きな息をついた。頭をめぐらせば、低い山脈が静かに黄昏の色を吸集してゐるし、遠くの山の頂は日の光に射られてキラキラと輝いてゐる。これはまるで嘘のやうな景色であつた。もう空襲のおそれもなかつたし、今こそ大空は深い静謐を湛へてゐるのだ。ふと、私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のやうな気持がするのであつた。それにしても、あの日、饒津の河原や、泉邸の川岸で死狂つてゐた人間達は、――この静かな眺めにひきかへ、あの焼跡は一体いまどうなつてゐるのだろう。新聞によれば、七十五年間は市の中央には居住できないと報じてゐるし、人の話ではまだ整理のつかない死骸が一万もあつて、夜毎焼跡には人魂が燃えてゐるといふ。川の魚もあの後二三日して死骸を浮べてゐたが、それを獲つて喰つた人間は間もなく死んでしまつたといふ。あの時、元気で私達の側に姿を見せてゐた人達も、その後敗血症で斃れてゆくし、何かまだ、惨として、割りきれない不安が附纏ふのであつた。

 

 食糧は日々に窮乏してゐた。ここでは、罹災者に対して何の温かい手も差しのべられなかつた。毎日毎日、かすかな粥を啜つて暮らさねばならなかつたので、私はだんだん精魂が尽きて食後は無性に睡くなつた。二階から見渡せば、低い山脈の麓からずつとここまで稲田はつづいてゐる。青く伸びた稲は炎天にそよいでゐるのだ。あれは地の糧であらうか、それとも人間を飢ゑさすためのものであらうか。空も山も青い田も、飢ゑてゐる者の眼には虚しく映つた。

 夜は燈火が山の麓から田のあちこちに見えだした。久振りに見る燈火は優しく、旅先にでもゐるやうな感じがした。食事の後片づけを済ますと、妹はくたくたに疲れて二階へ昇つて来る。彼女はまだあの時の悪夢から覚めきらないもののやうに、こまごまとあの瞬間のことを回想しては、ブルブルと身顫をするのであつた。あの少し前、彼女は土蔵へ行つて荷物を整理しようかと思つてゐたのだが、もし土蔵に這入つてゐたら、恐らく助からなかつただらう。私も偶然に助かつたのだが、私が遭難した処と垣一重隔てて隣家の二階にゐた青年は即死してゐるのであつた。――今も彼女は近所の子供で家屋の下敷になつてゐた姿をまざまざと思ひ浮かべて戦くのであつた。それは妹の子供と同級の子供で、前には集団疎開に加はつて田舎に行つてゐたのだが、そこの生活にどうしても馴染めないので両親の許へ引取られてゐた。いつも妹はその子供が路上で遊んでゐるのを見ると、自分の息子も暫くでいいから呼戻したいと思ふのであつた。火の手が見えだした時、妹はその子供が材木の下敷になり、首を持上げながら、「をばさん、助けて」と哀願するのを見た。しかし、あの際彼女の力ではどうすることも出来なかつたのだ。

 かういふ話ならいくつも転がつてゐた。長兄もあの時、家屋の下敷から身を匐ひ出して立上ると、道路を隔てて向の家の婆さんが下敷になつてゐる顔を認めた。瞬間、それを助けに行かうとは思つたが、工場の方で泣喚く学徒の声を振切るわけにはゆかなかつた。

 もつと痛ましいのは嫂の身内であつた。槇氏の家は大手町の川に臨んだ閑静な栖ひで、私もこの春広島へ戻つて来ると一度挨拶に行つたことがある。大手町は原子爆弾の中心といつてもよかつた。台所で救ひを求めてゐる夫人の声を聞きながらも、槇氏は身一つで飛び出さねばならなかつたのだ。槇氏の長女は避難先で分娩すると、急に変調を来たし、輸血の針跡から化膿して遂に助からなかつた。流川町の槇氏も、これは主人は出征中で不在だつたが、夫人と子供の行衛が分らなかつた。

 私が広島で暮したのは半年足らずで顔見知も少かつたが、嫂や妹などは、近所の誰彼のその後の消息を絶えず何処かから寄せ集めて、一喜一憂してゐた。

 工場では学徒が三名死んでゐた。二階がその三人の上に墜落して来たらしく、三人が首を揃えて、写真か何かに見入つてゐる姿勢で、白骨が残されてゐたといふ。纔かの目じるしで、それらの姓名も判明してゐた。が、T先生の消息は不明であつた。先生はその朝まだ工場には姿を現してゐなかつた。しかし、先生の家は細工町のお寺で、自宅にゐたにしろ、途上だつたにしろ、恐らく助かつてはゐさうになかつた。

 その先生の清楚な姿はまだ私の目さきにはつきりと描かれた。用件があつて、先生の処へ行くと、彼女はかすかに混乱してゐるやうな貌で、乱暴な字を書いて私に渡した。工場の二階で、私は学徒に昼休みの時間英語を教へてゐたが、次第に警報は頻繁になつてゐた。爆音がして広島上空に機影を認めるとラジオは報告してゐながら、空襲警報も発せられないことがあつた。「どうしますか」と私は先生に訊ねた。「危険さうでしたらお知らせしますから、それまでは授業してゐて下さい」と先生は云つた。だが、白昼広島上空を旋回中といふ事態はもう容易ならぬことではあつた。ある日、私が授業を了へて、二階から降りて来ると、T先生はがらんとした工場の隅にひとり腰掛けてゐた。その側で何か頻りに啼声がした。ボール箱を覗くと、雛が一杯蠢いてゐた。「どうしたのです」と訊ねると、「生徒が持つて来たのです」と先生は莞爾笑つた。

 女の子は時々、花など持つて来ることがあつた。事務室の机にも活けられたし、先生の卓上にも置かれた。工場が退けて生徒達がぞろぞろ表の方へ引上げ、路上に整列すると、T先生はいつも少し離れた処から監督してゐた。先生の掌には花の包みがあり、身嗜のいい、小柄な姿は凜としたものがあつた。もし彼女が途中で遭難してゐるとすれば、あの沢山の重傷者の顔と同じやうに、想つても、ぞつとするやうな姿に変り果てたことだらう。

 私は学徒や工員の定期券のことで、よく東亜交通公社へ行つたが、この春から建物疎開のため交通公社は既に二度も移転してゐた。最後の移転した場所もあの惨禍の中心にあつた。そこには私の顔を身憶えてしまつた、色の浅黒い、舌足らずでものを云ふ、しかし、賢こさうな少女がゐた。彼女も恐らく助かつてはゐないであらう。戦傷保険のことで、よく事務室に姿を現してゐた、七十すぎの老人があつた。この老人は廿日市町にゐる兄が、その後元気さうな姿を見かけたといふことであつた。

 

 どうかすると、私の耳は何でもない人声に脅やかされることがあつた。牛小屋の方で、誰かが頓狂な喚きを発してゐる、と、すぐその喚き声があの夜河原で号泣してゐる断末魔の声を連想させた。腸を絞るやうな声と、頓狂な冗談の声は、まるで紙一重のところにあるやうであつた。私は左側の眼の隅に異状な現象の生ずるのを意識するやうになつた。ここへ移つてから、四五日目のことだが、日盛の路を歩いてゐると左の眼の隅に羽虫か何か、ふわりと光るものを感じた。光線の反射かと思つたが、日蔭を歩いて行つても、時々光るものは目に映じた。それから夕暮になつても、夜になつても、どうかする度に光るものがチラついた。これはあまりおびただしい焔を見た所為であらうか、それとも頭上に一撃を受けたためであらうか。あの朝、私は便所にゐたので、皆が見たといふ光線は見なかつたし、いきなり暗黒が滑り墜ち、頭を何かで撲りつけられたのだ。左側の眼蓋の上に出血があつたが、殆ど無疵といつていい位、怪我は軽かつた。あの時の驚愕がやはり神経に響いてゐるのであらうか、しかし、驚愕とも云へない位、あれはほんの数秒間の出来事であつたのだ。

 

 私はひどい下痢に悩まされだした。夕刻から荒れ模様になつてゐた空が、夜になると、ひどい風雨となつた。稲田の上を飛散る風の唸りが、電燈の点かない二階にゐてはつきりと聞える。家が吹飛ばされるかもしれないといふので、階下にゐる次兄達や妹は母屋の方へ避難して行つた。私はひとり二階に寝て、風の音をうとうとと聞いた。家が崩れる迄には、雨戸が飛び、瓦が散るだらう。みんなあの異常な体験のため神経過敏になつてゐるやうであつた。時たま風がぴつたり歇むと、蛙の啼声が耳についた。それからまた思ひきり、一もみ風は襲撃して来る。私も万一の時のことを寝たまま考へてみた。持つて逃げるものといつたら、すぐ側にある鞄ぐらゐであつた。階下の便所に行く度に空を眺めると、真暗な空はなかなか白みさうにない。パリパリと何か裂ける音がした。天井の方からザラザラの砂が墜ちて来た。

 翌朝、風はぴつたり歇んだが、私の下痢は容易にとまらなかつた。腰の方の力が抜け、足もとはよろよろとした。建物疎開に行つて遭難したのに、奇蹟的に命拾ひをした中学生の甥は、その後毛髪がすつかり抜け落ち、次第に元気を失つてゐた。そして、四肢には小さな斑点が出来だした。私も体を調べてみると、極く僅かだが、斑点があつた。念のため、とにかく一度診て貰ふため病院を訪れると、庭さきまで患者が溢れてゐた。尾道から広島へ引上げ、大手町で遭難したといふ婦人がゐた。髪の毛は抜けてゐなかつたが、今朝から血の塊りが出るといふ。姙つてゐるらしく、懶さうな顔に、底知れぬ不安と、死の近づいてゐる兆を湛へてゐるのであつた。

 

 舟入川口町にある姉の一家は助かつてゐるといふ報せが、廿日市の兄から伝はつてゐた。義兄はこの春から病臥中だし、とても救はれまいと皆想像してゐたのだが、家は崩れてもそこは火災を免れたのださうだ。息子が赤痢でとても今苦しんでゐるから、と妹に応援を求めて来た。妹もあまり元気ではなかつたが、とにかく見舞に行くことにして出掛けた。そして、翌日広島から帰つて来た妹は、電車の中で意外にも西田と出逢つた経緯を私に語つた。

 西田は二十年来、店に雇はれてゐる男だが、あの朝はまだ出勤してゐなかつたので、途中で光線にやられたとすれば、とても駄目だらうと想はれてゐた。妹は電車の中で、顔のくちやくちやに腫れ上つた黒焦の男を見た。乗客の視線もみんなその方へ注がれてゐたが、その男は割りと平気で車掌に何か訊ねてゐた。声がどうも西田によく似てゐると思つて、近寄つて行くと、相手も妹の姿を認めて大声で呼びかけた。その日収容所から始めて出て来たところだといふことであつた。……私が西田を見たのは、それから一ヶ月あまり後のことで、その時はもう顔の火傷も乾いてゐた。自転車もろとも跳ね飛ばされ、収容所に担ぎ込まれてからも、西田はひどい辛酸を嘗めた。周囲の負傷者は殆ど死んで行くし、西田の耳には蛆が湧いた。「耳の穴の方へ蛆が這入らうとするので、やりきれませんでした」と彼はくすぐつたさうに首を傾けて語つた。

 

 九月に入ると、雨ばかり降りつづいた。頭髪が脱け元気を失つてゐた甥がふと変調をきたした。鼻血が抜け、咽喉からも血の塊りをごくごく吐いた。今夜が危なからうといふので、廿日市の兄たちも枕許に集つた。つるつる坊主の蒼白の顔に、小さな縞の絹の着物を着せられて、ぐつたり横はつてゐる姿は文楽か何かの陰惨な人形のやうであつた。鼻孔には棉の栓が血に滲んでをり、洗面器は吐きだすもので真赤に染まつてゐた。「がんばれよ」と、次兄は力の籠つた声で励ました。彼は自分の火傷のまだ癒えてゐないのも忘れて、夢中で看護するのであつた。不安な一夜が明けると、甥はそのまま奇蹟的に持ちこたへて行つた。

 甥と一緒に逃げて助かつてゐた級友の親から、その友達は死亡したといふ通知が来た。兄が廿日市で見かけたといふ保険会社の元気な老人も、その後歯齦から出血しだし間もなく死んでしまつた。その老人が遭難した場所と私のゐた地点とは二丁と離れてはゐなかつた。

 しぶとかつた私の下痢は漸く緩和されてゐたが、体の衰弱してゆくことはどうにもならなかつた。頭髪も目に見えて薄くなつた。すぐ近くに見える低い山がすつかり白い靄につつまれてゐて、稲田はざわざわと揺れた。

 私は昏々と睡りながら、とりとめもない夢をみてゐた。夜の灯が雨に濡れた田の面へ洩れてゐるのを見ると、頻りに妻の臨終を憶ひ出すのであつた。妻の一周忌も近づいてゐたが、どうかすると、まだ私はあの棲み慣れた千葉の借家で、彼女と一緒に雨に鎖ぢこめられて暮してゐるやうな気持がするのである。灰燼に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど想ひ出すことがなかつた。が、夜明の夢ではよく崩壊直後の家屋が現れた。そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があつた。書物も紙も机も灰になつてしまつたのだが、私は内心の昂揚を感じた。何か書いて力一杯ぶつつかつてみたかつた。

 ある朝、雨があがると、一点の雲もない青空が低い山の上に展がつてゐたが、長雨に悩まされ通したものの眼には、その青空はまるで虚偽のやうに思はれた。はたして、快晴は一日しか保たず、翌日からまた陰惨な雨雲が去来した。亡妻の郷里から義兄の死亡通知が速達で十日目に届いた。彼は汽車で広島へ通勤してゐたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍してゐるといふ通知があつた矢さき、この死亡通知は、私を茫然とさせた。

 何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行つた人も帰りにはフラフラになつて戻つて来るといふことであつた。舟入川口町の姉は、夫と息子の両方の看病にほとほと疲れ、彼女も寝込んでしまつたので、再びこちらの妹に応援を求めて来た。その妹が広島へ出掛けた翌日のことであつた。ラジオは昼間から颱風を警告してゐたが、夕暮とともに風が募つて来た。風はひどい雨を伴ひ真暗な夜の怒号と化した。私が二階でうとうと睡つてゐると、下の方ではけたたましく雨戸をあける音がして、田の方に人声が頻りであつた。ザザザと水の軋るやうな音がする。堤が崩れたのである。そのうちに次兄達は母屋の方へ避難するため、私を呼び起した。まだ足腰の立たない甥を夜具のまま抱へて、暗い廊下を伝つて、母屋の方へ運んで行つた。そこにはみんな起きてゐて不安な面持であつた。その川の堤が崩れるなど、絶えて久しくなかつたことらしい。

「戦争に負けると、こんなことになるのでせうか」と農家の主婦は嘆息した。風は母屋の表戸を烈しく揺すぶつた。太い突かひ棒がそこに支へられた。

 翌朝、嵐はけろりと去つてゐた。その颱風の去つた方向に稲の穂は悉く靡き、山の端には赤く濁つた雲が漾つてゐた。――鉄道が不通になつたとか、広島の橋梁が殆ど流されたとかいふことをきいたのは、それから二三日後のことであつた。

 

 私は妻の一周忌も近づいてゐたので、本郷町の方へ行きたいと思つた。広島の寺は焼けてしまつたが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病つてくれた母がゐるのであつた。が、鉄道は不通になつたといふし、その被害の程度も不明であつた。とにかく事情をもつと確かめるために廿日市駅へ行つてみた。駅の壁には共同新聞が貼り出され、それに被害情況が書いてあつた。列車は今のところ、大竹・安芸中野間を折返し運転してゐるらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となつてゐるので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあつたが、半月も列車が動かないなどといふことは破天荒のことであつた。

 広島までの切符が買へたので、ふと私は広島駅へ行つてみることにした。あの遭難以来、久振りに訪れるところであつた。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しづつ展望される。山の傾斜に松の木がゴロゴロと薙倒されてゐるのも、あの時の震駭を物語つてゐるやうだ。屋根や垣がさつと転覆した勢をその儘とどめ、黒々とつづいてゐるし、コンクリートの空洞や赤錆の鉄筋がところどころ入乱れてゐる。横川駅はわづかに乗り降りのホームを残してゐるだけであつた。そして、汽車は更に激しい壊滅区域に這入つて行つた。はじめてここを通過する旅客はただただ驚きの目を瞠るのであつたが、私にとつてはあの日の余燼がまだすぐそこに感じられるのであつた。汽車は鉄橋にかかり、常盤橋が見えて来た。焼爛れた岸をめぐつて、黒焦の巨木は天を引掻かうとしてゐるし、涯てしもない燃えがらの塊は蜿蜒と起伏してゐる。私はあの日、ここの河原で、言語に絶する人間の苦悶を見せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れてゐるのだ。そして、欄杆の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いてゐる。饒津公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の階段が、何かぞつとする悪夢の断片のやうに閃いて見えた。つぎつぎに死んでゆく夥しい負傷者の中にまじつて、私はあの境内で野宿したのだつた。あの、まつ黒の記憶は向に見える石段にまだまざまざと刻みつけられてあるやうだ。

 広島駅で下車すると、私は宇品行のバスの行列に加はつてゐた。宇品から汽船で尾道へ出れば、尾道から汽車で本郷に行けるのだが、汽船があるものかどうかも宇品まで行つて確かめてみなければ判らない。このバスは二時間おきに出るのに、これに乗らうとする人は数丁も続いてゐた。暑い日が頭上に照り、日蔭のない広場に人の列は動かなかつた。今から宇品まで行つて来たのでは、帰りの汽車に間に合はなくなる。そこで私は断念して、行列を離れた。

 家の跡を見て来ようと思つて、私は猿猴橋を渡り、幟町の方へまつすぐに路を進んだ。左右にある廃墟が、何だかまだあの時の逃げのびて行く気持を呼起すのだつた。京橋にかかると、何もない焼跡の堤が一目に見渡せ、ものの距離が以前より遙かに短縮されてゐるのであつた。さういへば、々たる廃墟の彼方に山脈の姿がはつきり浮び出てゐるのも、先程から気づいてゐた。どこまで行つても同じやうな焼跡ながら、夥しいガラス壜が気味悪く残つてゐる処や、鉄兜ばかりが一ところに吹寄せられてゐる処もあつた。

 私はぼんやりと家の跡に佇み、あの時逃げて行つた方角を考へてみた。庭石や池があざやかに残つてゐて、焼けた樹木は殆ど何の木であつたか見わけもつかない。台所の流場のタイルは壊れないで残つてゐた。栓は飛散つてゐたが、頻りにその鉄管から今も水が流れてゐるのだ。あの時、家が崩壊した直後、私はこの水で顔の血を洗つたのだつた。いま私が佇んでゐる路には、時折人通りもあつたが、私は暫くものに憑かれたやうな気分でゐた。それから再び駅の方へ引返して行くと、何処からともなく、宿なし犬が現れて来た。そのものに脅えたやうな燃える眼は、奇異な表情を湛へてゐて、前になり後になり迷ひ乍ら従いてくるのであつた。

 汽車の時間まで一時間あつたが、日蔭のない広場にはあかあかと西日が溢れてゐた。外郭だけ残つてゐる駅の建物は黒く空洞で、今にも崩れそうな印象を与へるのだが、針金を張巡らし、「危険につき入るべからず」と貼紙が掲げてある。切符売場の、テント張りの屋根は石塊で留めてある。あちこちにボロボロの服装をした男女が蹲つてゐたが、どの人間のまはりにも蠅がうるさく附纏つてゐた。蠅は先日の豪雨でかなり減少した筈だが、まだまだ猛威を振つてゐるのであつた。が、地べたに両足を投出して、黒いものをパクついてゐる男達はもうすべてのことがらに無頓着になつてゐるらしく、「昨日は五里歩いた」「今夜はどこで野宿するやら」と他人事のやうに話合つてゐた。私の眼の前にきよとんとした顔つきの老婆が近づいて来て、

「汽車はまだ出ませんか、切符はどこで切るのですか」と剽軽な調子で訊ねる。私が教へてやる前に、老婆は「あ、さうですか」と礼を云つて立去つてしまつた。これも調子が狂つてゐるのにちがひない。下駄ばきの足をひどく腫らした老人が、連れの老人に対つて何か力なく話しかけてゐた。

 

 私はその日、帰りの汽車の中でふと、呉線は明日から試運転をするといふことを耳にしたので、その翌々日、呉線経由で本郷へ行くつもりで再び廿日市の方へ出掛けた。が、汽車の時間をとりはづしてゐたので、電車で己斐へ出た。ここまで来ると、一そ宇品へ出ようと思つたが、ここからさき、電車は鉄橋が墜ちてゐるので、渡舟によつて連絡してゐて、その渡しに乗るにはものの一時間は暇どるといふことをきいた。そこで私はまた広島駅に行くことにして、己斐駅のベンチに腰を下ろした。

 その狭い場所は種々雑多の人で雑沓してゐた。今朝尾道から汽船でやつて来たといふ人もゐたし、柳井津で船を下ろされ徒歩でここまで来たといふ人もゐた。人の言ふことはまちまちで分らない、結局行つてみなければどこがどうなつてゐるのやら分らない、と云ひながら人々はお互に行先のことを訊ね合つてゐるのであつた。そのなかに大きな荷を抱へた復員兵が五六人ゐたが、ギロリとした眼つきの男が袋をひらいて、靴下に入れた白米を側にゐるおかみさんに無理矢理に手渡した。

「気の毒だからな、これから遺骨を迎へに行くときいては見捨ててはおけない」と彼は独言を云つた。すると、「私にも米を売つてくれませんか」といふ男が現れた。ギロリとした眼つきの男は、

「とんでもない、俺達は朝鮮から帰つて来て、まだ東京まで行くのだぜ、道々十里も二十里も歩かねばならないのだ」と云ひながら、毛布を取出して、「これでも売るかな」と呟くのであつた。

 広島駅に来てみると、呉線開通は虚報であることが判つた。私は茫然としたが、ふと舟入川口町の姉の家を見舞はうと思ひついた。八丁堀から土橋まで単線の電車があつた。土橋から江波の方へ私は焼跡をたどつた。焼け残りの電車が一台放置してあるほかは、なかなか家らしいものは見当らなかつた。漸く畑が見え、向に焼けのこりの一郭が見えて来た。火はすぐ畑の側まで襲つて来てゐたものらしく、際どい処で、姉の家は助かつてゐる。が、塀は歪み、屋根は裂け、表玄関は散乱してゐた。私は裏口から廻つて、縁側のところへ出た。すると、蚊帳の中に、姉と甥と妹とその三人が枕を並べて病臥してゐるのであつた。手助に行つてた妹もここで変調をきたし、二三日前から寝込んでゐるのだつた。姉は私の来たことを知ると、

「どんな顔をしてるのか、こちらへ来て見せて頂だい、あんたも病気だつたさうなが」と蚊帳の中から声をかけた。

 話はあの時のことになつた。あの時、姉たちは運よく怪我もなかつたが、甥は一寸負傷したので、手当を受けに江波まで出掛けた。ところが、それが却つていけなかつたのだ。道々、もの凄い火傷者を見るにつけ、甥はすつかり気分が悪くなつてしまひ、それ以来元気がなくなつたのである。あの夜、火の手はすぐ近くまで襲つて来るので、病気の義兄は動かせなかつたが、姉たちは壕の中で戦きつづけた。それからまた、先日の颱風もここでは大変だつた。壊れてゐる屋根が今にも吹飛ばされさうで、水は漏り、風は仮借なく隙間から飛込んで来、生きた気持はしなかつたといふ。今も見上げると、天井の墜ちて露出してゐる屋根裏に大きな隙間があるのであつた。まだ此処では水道も出ず、電燈も点かず、夜も昼も物騒でならないといふ。

 私は義兄に見舞を云はうと思つて隣室へ行くと、壁の剥ち、柱の歪んだ部屋の片隅に小さな蚊帳が吊られて、そこに彼は寝てゐた。見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を呆然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄は喘いでゐるのであつた。

 私は姉の家で二三時間休むと、広島駅に引返し、夕方廿日市へ戻ると、長兄の家に立寄つた。思ひがけなくも、妹の息子の史朗がここへ来てゐるのであつた。彼が疎開してゐた処も、先日の水害で交通は遮断されてゐたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻つて来たのである。膝から踵の辺まで、蚤にやられた傷跡が無数にあつたが、割りと元気さうな顔つきであつた。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらつた。が、どういふものか睡苦しい夜であつた。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦つて来る。八丁堀から駅までバスに乗つた時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭ひがあつたのを私は思ひ出した。あれは死臭にちがひなかつた。あけがたから雨の音がしてゐた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰つて行つた。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣足であつた。

 

 嫂は毎日絶え間なく、亡くした息子のことを嘆いた。びしよびしよの狭い台所で、何かしながら呟いてゐることはそのことであつた。もう少し早く疎開してゐたら荷物だつて焼くのではなかつたのに、と殆ど口癖になつてゐた。黙つてきいてゐる次兄は時々思ひあまつて呶鳴ることがある。妹の息子は飢ゑに戦きながら、蝗など獲つて喰つた。次兄の息子も二人、学童疎開に行つてゐたが、汽車が不通のためまだ戻つて来なかつた。長い悪い天気が漸く恢復すると、秋晴の日が訪れた。稲の穂が揺れ、村祭の太鼓の音が響いた。堤の路を村の人達は夢中で輿を担ぎ廻つたが、空腹の私達は茫然と見送るのであつた。ある朝、舟入川口町の義兄が死んだと通知があつた。

 私と次兄は顔を見あはせ、葬式へ出掛けてゆく支度をした。電車駅までの一里あまりの路を川に添つて二人はすたすた歩いて行つた。とうとう亡くなつたか、と、やはり感慨に打たれないではゐられなかつた。

 私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまづ目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫へながら、生木の燻る火鉢に獅噛みついてゐた。言葉も態度もひどく弱々しくなつてゐて、滅きり老い込んでゐた。それから間もなく寝つくやうになつたのだ。医師の診断では肺を犯されてゐるといふことであつたが、彼の以前を知つてゐる人にはとても信じられないことではあつた。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増えた頭を持あげ、いろんなことを喋つた。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいてゐることを予想し、国民は軍部に欺かれてゐたのだと微かに悲憤の声を洩らすのであつた。そんな言葉をこの人の口からきかうとは思ひがけぬことであつた。日華事変の始まつた頃、この人は酔ぱらつて、ひどく私に絡んで来たことがある。長い間陸軍技師をしてゐた彼には、私のやうなものはいつも気に喰はぬ存在と思へたのであらう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶えてゐる。この人のことについて書けば限りがないのであつた。

 私達は己斐に出ると、市電に乗替へた。市電は天満町まで通じてゐて、そこから仮橋を渡つて向岸へ徒歩で連絡するのであつた。この仮橋もやつと昨日あたりから通れるやうになつたものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであつた。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市が栄えるやうになつたのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まへであつた。

 天井の墜ち、壁の裂けてゐる客間に親戚の者が四五人集まつてゐた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばつかしに、自分は弁当を持つて行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉をすませてゐたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被はれてゐた。その死顔は火鉢の中に残つてゐる白い炭を連想さすのであつた。

 遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかつた。近所の人が死体を運び、準備を整へた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行つた。畑のはづれにある空地に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれてゐた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体が焼かれる場所で、焚つけは家屋の壊れた破片が積重ねてあつた。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経をあげ、藁に火が点けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーツと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移つて行つた。雨もよひの空はもう刻々と薄暗くなつてゐた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。

 私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許の川はすつかり暗くなつてゐたし、片方に展がつてゐる焼跡には灯一つも見えなかつた。暗い小寒い路が長かつた。どこからともなしに死臭の漾つて来るのが感じられた。このあたり家の下敷になつた儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆の発生地となつてゐるといふことを聞いたのはもう大分以前のことであつたが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅すやうであつた。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷ひでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随つてはつきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何といふ初々しい声であらう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さへ泣いてゐるのであらうか。何ともいひしれぬ感情が私の腸を抉るのであつた。

 

 槇氏は近頃上海から復員して帰つて来たのですが、帰つてみると、家も妻子も無くなつてゐました。で、廿日市町の妹のところへ身を寄せ、時々、広島へ出掛けて行くのでした。あの当時から数へてもう四ヶ月も経つてゐる今日、今迄行衛不明の人が現れないとすれば、もう死んだと諦めるよりほかはありません。槇氏にしてみても、細君の郷里をはじめ心あたりを廻つてはみましたが、何処でも悔みを云はれるだけでした。流川の家の焼跡へも二度ばかり行つてみました。罹災者の体験談もあちこちで聞かされました。

 実際、広島では今でも何処かで誰かが絶えず八月六日の出来事を繰返し喋つてゐるのでした。行衛不明の妻を探すために数百人の女の死体を抱き起して首実検してみたところ、どの女も一人として腕時計をしてゐなかつたといふ話や、流川放送局の前に伏さつて死んでゐた婦人は赤ん坊に火のつくのを防ぐやうな姿勢で打伏になつてゐたといふ話や、さうかと思ふと瀬戸内海のある島では当日、建物疎開の勤労奉仕に村の男子が全部動員されてゐたので、一村挙つて寡婦となり、その後女房達は村長のところへ捻ぢ込んで行つたといふ話もありました。槇氏は電車の中や駅の片隅で、そんな話をきくのが好きでしたが、広島へ度々出掛けて行くのも、いつの間にか習慣のやうになりました。自然、己斐駅や広島駅前の闇市にも立寄りました。が、それよりも、焼跡を歩きまはるのが一種のなぐさめになりました。以前はよほど高い建ものにでも登らない限り見渡せなかつた、中国山脈がどこを歩いてゐても一目に見えますし、瀬戸内海の島山の姿もすぐ目の前に見えるのです。それらの山々は焼跡の人間達を見おろし、一体どうしたのだ? と云はんばかりの貌つきです。しかし、焼跡には気の早い人間がもう粗末ながらバラツクを建てはじめてゐました。軍都として栄えた、この街が、今後どんな姿で更生するだらうかと、槇氏は想像してみるのでした。すると緑樹にとり囲まれた、平和な、街の姿がぼんやりと浮ぶのでした。あれを思ひ、これを思ひ、ぼんやりと歩いてゐると、槇氏はよく見知らぬ人から挨拶されました。ずつと以前、槇氏は開業医をしてゐたので、もしかしたら患者が顔を憶えてゐてくれたのではあるまいかとも思はれましたが、それにしても何だか変なのです。

 最初、かういふことに気附いたのは、たしか、己斐から天満橋へ出る泥濘を歩いてゐる時でした。恰度、雨が降りしきつてゐましたが、向から赤錆びたトタンの切れつぱしを頭に被り、ぼろぼろの着物を纏つた乞食らしい男が、雨傘のかはりに翳してゐるトタンの切れから、ぬつと顔を現はしました。そのギロギロと光る眼は不審げに、槇氏の顔をまじまじと眺め、今にも名乗をあげたいやうな表情でした。が、やがて、さつと絶望の色に変り、トタンで顔を隠してしまひました。

 混み合ふ電車に乗つてゐても、向から頻りに槇氏に対つて頷く顔があります。ついうつかり槇氏も頷きかへすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがひのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限つたことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出さうとしてゐるのでした。