原民喜『潮干狩』
前の晩、雄二は母と一緒に風呂桶につかつてゐると、白い湯気の立昇るお湯の面に、柱のランプの火影が揺れて、ふとK橋のことを思ひ出した。恰度、夜の橋の上から両岸の火影が水に映つてゐるのを眺めてゐるやうな気持だつた。明日は父に連れられて、皆で潮干狩に行くのだつた。雄二はまだ船で川を下つたことはなかつた。床に這入つてからも、なかなか睡れなかつた。寝床がそのまま船になつて、闇のなかを進んで行く。だ、だ、だ、だ、と物凄い音がして、雄二は何度も目を覚ました。
朝になると、雄二は積木細工をして縁側で遊んだ。花のついた石榴の梢に麗らかな日が射して、いい天気だつた。昼餉が済むと、いよいよ皆は出発の支度をした。貝掻、叉手などを貴磨と大吉は提げ、雄二は小さなバケツを持つた。母と姉は着物を着替へてゐて少し遅れて出て来たが、門口で皆が揃ふと父はK橋の方へ歩き出した。太陽が恰度路の真上にあつて風はなかつた。大吉と貴磨は父を追越すと、洋館建の写真屋の角を廻つて、勝手に進んで行くのだつた。雄二は母と姉に挿まれてゆつくり歩いてゐたが、兄達が間違つた方角へ行くのではないかと心配した。すると、父も写真屋の角を廻つてしまつた。K橋へ行くのではなささうだつた。やがて雄二達も窓を廻つて、小路へ出た。そこは片方に半間幅の溝があつて、溝に沿つて、柳の木が遠くまで続いてゐた。
片方の家には、板の橋や石の橋があった。溝の泥水のなかに一ところ石油がギラギラ五色に輝いてゐるのを雄二は歩きながら見とれた。太い柳の幹からは、指のやうな草がぶらさがつてゐた。片方は塀を廻らした家や格子のある家が並んでゐてそのなかに一軒カーキー色の日覆を張つた雑貨店があつた。店先の置座に狆が眼を光らしながら雄二を見送つてゐた。ふと向を見ると、何時も雄二の家の前を通る気違の女がやつて来るところだつた。綿の襤褸を着ぶくれて、懐から麦藁を出して編みながら、突出た下唇で何かぶつぶつ呟いてゐる。兄達はもうその気違と擦違つてしまつた。大吉は態と振返つて雄二の方を眺めた。雄二は菊子に手を引かれてゐたが、姉の汗ばんだ掌にこの時心持力が加はつた。そして無事で気違と擦違つた。
柳の並木が杜切れて、砂利を敷いた処に来ると、雄二は下駄の下に鳴る砂利の音で元気づいた。路はT字型に行塞つて、左の角を廻るとS橋の袂に出るのだつた。少し盛上がつた坂の上にS橋の欄干が見えてゐた。大吉と貴磨とは橋の袂に立留まつて、こちらを見てゐた。兄達の後に青い空が拡がり、橋や川のさざめきがそこから洩れて来るやうに思へた。風がまつすぐ雄二の顔へあたり出した。橋の袂の釣道具を売る硝子戸の店の前で父は立留まつた。
やがて雄二達も父の処へ来た。その店のすぐ横が石段になつてゐて、川の水が見下せた。父がどんどん石段を下つて行くと、貴磨も大吉もそれに続いた。雄二には可也(かなり)の幅の石段で、姉の手に縋つて下へ降りて行つたが、下駄の下に砂利の粒が滑るのが心細かつた。間もなく、黒い苔の生えてゐる一番下の滑らかな石へ降りた。そこを水が流れてゐて、水の中に黒い杭が並んでゐた。二三間ばかり石を伝つて行くと、船やボートが五六艘_がれてゐた。父は屋根のある船の中の人に対つて何か云つてゐた。すると、船の中から船頭が出て来て、隣に繋いである舟の綱を執つて、手軽に岸の方へ引寄せた。それから舟と岸との間に板を渡した。と思ふと、その船頭は股引の儘水のなかに這入つて行つて、舟の後を押へた。父がまづ板の上を渡つて行き、船の上で下駄を脱いだ。兄達は先に下駄を脱いで板の上を渡つて行つた。それから雄二も下駄を脱いで、真直に歩いて行つた。水のなかにゐる船頭の顔が、その雄二の眼に映つてゐた。人の好ささうな、そして怖さうな顔だつた。舟へ足が達くと、雄二は吻として、岸の方を見た。今、姉が板の上を渡つて来るところだつた。姉が舟に乗ると、舟は少し揺れた。最後に母が渡つて来た。するとまた舟はふらふら揺れた。
雄二は真中の蓙のところへ、兄達と並んで坐らされた。先の方には父が坐り後には母と姉が坐つた。雄二がゐる場所は寝転ぶことが出来る位の隙があつた。大吉はすぐ蓙の上にあふのけになつて、空を眺めた。雄二も真似てあふのけになつてみると、青空は広々としてゐて、真上にある太陽が眩しかつた。それで目を閉ぢると、瞼の上に赤い翳が現れた。そのうちに舟がくるくる廻り出したので、雄二は起上つてみた。何時の間にか舟に船頭が乗つてゐて、長い竹の棹を持つてゐた。舟はもうさつきの石段から大分離れてゐた。四五艘の舟やボートがまはりに浮いてゐて、今雄二達を見送るやうだつた。向岸を眺めると、土手の緑の並木の間に、石屋があつて、花崗石がキラキラ光つてゐた。その並木の上には低い山の姿が間近に見え、白い煙がしゅつしゅつと動いて行くのは今汽車が通つてゐるらしかつた。
さつきの石段は段々小さくなつて来た。石段のところは暗く見えたが、その上の路は妙に明るかつた。石段に添つて、細い銀色の水が川へ注いでゐるのを雄二は今になつて気がついた。
「そら、橋へ来た」と菊子が云つた。忽ち舟は日陰に這入つた。そして、頭の上にゴロゴロと大きな響がするので、ふり仰ぐと、恰度、S橋の裏側の天井が眺められた。たしか橋の上を今荷馬車が通つてゐるらしく、ゴロゴロといふ響と一緒にパカパカと馬の蹄の音が聞えた。舟のすぐ側には怕いやうな丸太棒がぎゅつと水から突出て、橋を支へてゐた。そのうちにパツと明るい空と同時に、橋の欄杆が見え出した。誰かが欄干に身を屈めて、舟の方を珍しげに覗き込んでゐる顔が白く小さく見えた。が、空の明るさで眩しくて、雄二の眼にははつきりとはその顔が見わけられなかつた。大吉は橋をくぐり抜けると立ててゐた叉手を振廻して一人ではしゃいだ。水の上が広々として来て、潜り抜けた橋の姿全体が今は後に見えた。ドドドドドとその橋はとりとめもない呟きを残してゐた。欄杆の上の青空を自転車に乗つて走る人の白い上着が閃いてゐた。橋の上には六七人の人影があつた。それらの人がみな雄二の舟を見送つてゐるやうに思へた。いよいよ海へ行くのだと雄二は思つた。棹は水に浸り砂を押しては、また水を抜けて、雫が水に落ちた。何時までもそれを見てゐると雄二は気持がだるくなるのだつた。
舟の横から水の上の日南を渡る風が拭きつけて来た。向に三角形の洲が見えて、そこから川は二岐に分かれてゐるのだつた。大きな石塊のごろごろしてゐる出鼻のところには黒い杭にあたる波が白く砕けてゐて、水は青々と深さうだつた。舟はそこにはあまり近寄らないで、川の中央を進んでゐた。雄二には出鼻の方の岸がいくらか他所のやうな気がして、反対に恰度最初に出発した時の方の岸が何時までも自分の家と近いのを感じた。出鼻を過ぎると向岸には同じやうな格好の黒い格子の二階建が三四軒並んでゐたが、その家が何といふことなしに雄二には意地の悪い家のやうに思へた。そこの屋根の上から日陰になつてゐる青空が魔のやうに覗いてゐた。そして、鏡のやうな空を黒い小鳥が横切つて行くのが、怕く思へた。雄二の家の在る方の側の岸は、家や樹木に日が当たつてゐて、穏やかな眺めだつた。今、そちらの側に家並が杜切れて土手の広場が見上げられた。石崖の上は茫々と雑草が茂つてゐて、大きな樫の木は日の光を吸つてぐつたりした姿で空に聳えてゐた。すると白壁の土蔵が現れて樫の木の頭だけを空に残した。次いで枝ぶりのいい松の生えてゐる庭があつた。枳垣の透間から罌粟(けし)畑が見えた。硝子張りの二階の縁側には藤の寝椅子があつて、女の人がそこからぼんやりと川を見下ろしてゐた。二階の軒の日覆はふわふわ動いてゐるのだつた。そこから今度はまた違ふ家の二階が見えた。誰もゐないのか白い障子が立てきつてあつてアカシアの花が揺いでゐた。
そのうちに、ドドドドドと軽い響が伝はつて、K橋が見えて来た。水の上に映るK橋はドドドドと軽く揺れてゐるのだった。雄二は自分のよく知ってゐる橋へ来たので、少し嬉しくなつた。何時も父や姉に連れられて、あのK橋の上から見下ろしてゐたところを、これから通るのだつた。まづ、頭の上を、水道の大きな黒い管が過ぎた。それから一寸空の隙間があつて、間もなく橋の下に這入つた。橋桁を支へる石の台と台の間を舟は通つて行つた。その石の台のまはりには土があつて、黒ずんだ草が紐のやうにさがつてゐるのを雄二は不思議に思つた。水の深さを計る目盛をした白塗の棒がつきたつてゐた。その辺は深く青々としてゐた。頭の上を通つて行く下駄の音が夢のやうであつた。そして舟はK橋を抜けた。雄二は何かほつとして母や皆の顔を見た。皆は黙つたまま川を眺めてゐるのだつた。日に焦けた顔をした船頭は前と変らぬ顔をしてゐた。
「気分がわるいのなら此処で下ろしてもらふといい。」と、その時大吉は雄二にちょつと調弄(からか)ひ出した。
「馬鹿」と雄二は腹を立ててそつぽを向いた。すると向岸の橋の袂にある花嫁を描いた大きな看板が眼に映つた。その看板はこちらの岸の大学眼薬のお爺さんと対ひ合つてゐるのだつた。眼薬の看板のところには無花果の葉が黒々と茂り、石崖から水の上に影を落してゐた。間もなく、舟は牡蠣船の繋いであるところへ来た。大きな屋根のある家のやうな船は、岸の方へ続く板の橋を持つてゐて、そして船の入口のところの手摺に生きてる鴉が一羽縛りつけてあつた。その船を過ぎると、M神社の岸であつた。そこの岸には家が建つてゐないので、広々とした空が少し霞んでゐた。そして小さな石の鳥居や神社の甍や松が透いて見えた。雄二はお祭の時行って賑やかだったのを覚えてゐたが、昼のM神社はひっそりとしてゐた。
川の中に、ところどころ水が乾いて白い砂の出てゐるところがあつた。水は次第に浅くなつて、覗くと底の砂や影の朧な蜆貝が見えた。砂も石塊も水と一緒にキラキラと速く後へ飛んでゆくやうに思へた。雄二はちょつと水に手を浸してみたが、冷たかつたのですぐ収め、今度はM神社の岸とは反対の方に目を向けた。すると、向岸の家並のなかに一軒赤い煉瓦の小家があつて、塀のうちに紅い花が咲いてゐた。それらの家並の屋根瓦の上に、さつきからH山が覗いてゐるのを雄二はやつと気がついた。低い小さなH山はぽつと屋根の上に持つて来て置いたやうな格好だった。山の輪郭は、いくらか霞んでゐたが、たしかに雄二に今見られたので、ちょつと喫驚したやうな貌をした。それで雄二もびつくりしたやうに瞬いて、顔をそむけた。恰度、その時、舟の五六間先を家鴨がすつと泳いで行つた。雄二がハツとして、家鴨の群を見やると六七羽の家鴨は岸の方の医院の石段へ集まつてしまつた。水に浮んでゐるところをもつとよく見たかつたのだが、もう家鴨は川へは降りて来なかつた。そして、雄二が残念がつてゐるうちに、もう舟は橋へ来てゐた。
I橋を潜り抜けると、H山の見える土手に火見櫓があつた。櫓の上からホースが二すぢ釣りさがつてゐるのが灰色に見えその少し向は桜並木が黒々と渦巻いてゐた。雄二の側の岸には、今、大きな柳の樹が頭髪を水に浸して、土手から屈んでゐた。その上を軽く燕が横切つた。空高く入乱れた沢山の竹竿を束ねた家が見えて来て、そこを遠ざかつてからもまだ竹竿ばかりは屋根の上に残され、白く光つた。次いで雄二の眼の前には、大きな黒い函のやうな木造の建物があつた。ガラス窓がぽかつと口を開いてゐて、その建物は何となしに雄二には寒気がした。黒い函の脚にあたる五六本の柱は無遠慮に下の川へ突立ってゐた。その黒い函は凝と堤に頑張つて、意地悪く雄二の後をつけて来た。が、やがて、他所の屋根でぱつと巧く隠されてしまつた。と、思ふとまた一寸顔を覗けたが、今度は立並ぶ材木の列ですつかり隠された。
材木は縦にも横にも空地一杯に積重ねられてゐた。そして、水のなかには大きな筏が止められてゐるのだつた。そのあたりに樹皮のついた丸太が水に浸されて、いくつも浮んでゐた。石段の側の石崖に、荒い格子の嵌つた薄暗い窓があつて、窓のすぐ下の土管から、ふと思ひ出したやうに水が流れて来た。菜の屑や藁が水と一緒に滑り落ちてきた。間もなく、材木の山も見えなくなると、石崖の上には籔がかぶさり、板屋根の荒屋が現れて来た。それにつづいて、貧しげな野菜畑と大きな鶏小屋があつた。薄暗い鶏小屋の窓からは随分沢山の鶏が首を覗けて動いてゐるのだつた。雄二はちょつと眼を瞠つた。しかし、鶏小屋はすぐに見へなくなつてしまつた。
むかふの方にぼんやりとT橋が薄い小さな影を現はして来た。その上に横はるH山には何時の間にか山のすぐ後の空に睡むさうな薄雲が棚引いてゐた。向岸の土手はところどころに青葉を混ぜて同じやうな格好の小家が並び、高い石崖はうねりながらT橋の方へ続いてゐるのだつた。そして、石崖の下はずつと水が干て、砂地になつてゐた。たまに、その砂地を歩いてゐる人の姿もぼんやりと眺められた。石崖の曲がつて突出たところに大きな黄櫨の樹が聳えてゐた。あの大きな樹の前を過ぎて、まだ大分行かなければT橋にはならないのだらうと雄二は思つた。すると雄二は何か遥かな気持がして侘しくなつた。川の眺めにも見飽きたやうで、眼は少しぼんやりして来た。が、水の上を見てゐないと一そういけないやうな気持がした。船頭もほかの人も平気な顔をしてゆつくり落着いてゐた。
向ふから小さな舟がやつて来た。流れに遡つてゐるので棹を押してゐる人はつらさうだつた。雄二達の舟はすーと進んでその舟と擦違つてしまつた。雄二は振返つて擦違つた舟の方を暫く見てゐた。何も積んでゐない舟なのになかなか進まなかつた。やがて、その舟が遠ざかつたと思ふと、大きな櫨の木の生えてゐる石崖のところを雄二達の舟は過ぎてゐた。すると思つてゐたよりも近くにT橋はもう見へてゐるのだつた。橋が近づくに随つて、欄杆の上にあるH山も近づいた。山の樹木が今ははつきりと見へ出した。橋の向の方はキラキラ水面が光つてゐて、そちら側へ出ればまた景色は広々といて来るらしかつた。
そのうちに舟はたうたうT橋の下に来た。雄二はまた顔をあげて橋の裏を眺めた。待ち兼ねてゐた橋も過ぎると、行手はまた広々とした水の上だつた。H山は向岸の屋根の上にすつかり姿を現わした。濃い緑の松が重なり合つてゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであつた。舟が進んで行くとH山はいよいよ正面のところをはつきり見せて来た。山の下の家並は見る間に早く移り変つて行くのに、山はなかなか終らうとしなかつた。たうたう雄二はそれで山のない方の岸へ目をやつた。すると、堤は何時の間にか低くなつてゐて、家も疎らな、広々とした眺めだつた。別荘らしい庭のある家や、草原や何もない白い路が緩く入替わつて現れた。それから電信棒がしつこく堤に添つて並んでゐた。
雄二は何時までも同じ所を進んでゐるやうな気持がして、次第に堪へがたくなつた。ふと気がつくと、もうH山は遠のいてゐた。しかしもうどちらの岸が自分の家の方角なのか、雄二はすつかりわからなかつた。
「恰度潮時はいいだらうな」と云ふ父の声が遠くでぼんやり聞えた。すると船頭が何か応へたらしかつたが、雄二ははつきり憶えなかつた。急に冷たい風が雄二の頬を掠めた。「あ、雄二の顔、真青」と、その時母が吃驚したやうに注意した。雄二はぐつたり頭を屈めて、ちぢこまつてしまつた。
やがて、舟が川岸へ着けられると、雄二は父に抱かれて陸に降ろされた。下駄を穿かされたかと思ふと、ふらふら目が昏んで、雄二は地面に屈んだ。そして遽かに吐気がして来た。雄二はぐつと涙が鼻の方へ流れて来た。雄二は微かな声をあげて泣き出した。
「舟に酔つたのだ、すぐなほるよ」と、父が宥めて呉れた。そして、何時の間にか小さな置座を持つて来てくれた。雄二がその上に腰を下すと、もう段々楽になつたが、何だかがつかりして不思議だつた。
間もなく船頭が俥を傭つて来た。雄二は姉に連れられて、さきに家へ帰ることになつた。
「もう大丈夫」と、菊子が訊ねると雄二は大きく頷いた。父も母も兄達もみんなが俥を見送つた。雄二はもうすつかり元気になつてゐた。俥は長い長い橋を渡つてゆきむかふに海が見えた。
(初出は『文芸汎論』1939年9月号)